第54話-報復と許しとその先へ①

 放課後。有巣はそれはもう恐いくらいニコニコと。というより不気味な微笑みを全開で部活棟を闊歩かっぽしていた。その後ろを俺と姫野が苦笑いで連いて行く。


 姫野は「ヒメリーン!」だの「ヒメちゃん、よかったよー!」だの、それはもうたくさん声をかけられて、一躍いちやくレッドカーペットを歩くハリウッド女優のようになっていた。


 しかし、どんどん目的地に近づくにつれ、有巣の表情が奇怪きかいに、なんとも形容し難い恐ろしさを発するようになり、もう誰も近づかない。レッドカーペットはいつのまにかグリーンマイルになっていた。


 もちろん有巣のお目当ては文芸部。というよりも島崎。


「ふふふ。もう恐いものはない。好き放題罵倒ばとうして土下座させてやる。絶対にごめんなさいと叫ばせてやるんだ」


 と、さきほどから呪詛じゅそのように何度も息巻いている。


「優馬くん。あたしのことなのに申し訳ないけど……あまり気が進まないなあ」

「でも、ちゃんと謝ってもらった方がいんじゃないか」


 まあ一筋ひとすじなわではいかないだろう。けれど、ここまで姫野を傷つけてくれたんだ。俺だって謝罪の一つや二つはあってしかるべきだと思う。


 そんなこんなで文芸部室前。有巣が扉に手をかけた瞬間。


「す、すみませんでした! この通りです。もう二度とこのようなことは……!」


 早くも目的が達成された……。

 いや、まだ有巣はその戸を開いていない。有巣自身、怪訝けげんな顔で突っ立っているのだ。それなのに中からは島崎と思われる懺悔ざんげが響き、修羅場しゅらばのような殺気が立ち込めている。


 わずかに扉をスライドさせ、俺達は揃って中をのぞき見た。


 そこにはこちらに向かって正座し、許しをう島崎とその正面に、


「ワタシの可愛い妹達をよくぞここまで痛めつけてくれたな」


 地獄から聞こえるような低い声に緋色の髪を侍のようにって、より大きく見える背中。便所サンダルと右手には木刀。そして有巣の怒気とは比にならないくらい強烈きょうれつで圧倒的なオーラをにじませた、見たことの無い千鶴さんがそこにいた。


 島崎の喉元には木刀の先端が突き刺さり、かすむ音を出しながら息苦しそうに悶えている。


「例えユーマが、レナが、そしてリンが許そうが、この神宮寺千鶴がそれを許さん」


 阿修羅あしゅらの化身のようになった千鶴さんが木刀を振り上げる。

 そして一閃いっせん――が、振り下ろされる前に扉が音を立てて開いた。

 千鶴さんはわった目で振りむき、島崎も頭をかばいながら半べそでこちらに向く。


「ちづ姉、やめてっ! もうその辺にしておいてあげて……くれませんか?」


 開けたのは姫野だった。刃物のような千鶴さんの眼光がんこうに、姫野も思わず語尾が弱まる。

 だが、姫野を見た千鶴さんはすんなり普段の明るい笑顔を見せた。


「なんだ、おまえたちか! レナのことだし、どうせ来ると思ったよ。それにもともとあてる気はなかったから心配するな」


 その言葉を聞いて、島崎は卒倒そっとうしたようにへたり込む。

 この状態からすると自供じきょうさせられたあげく、しばらく千鶴さんにしばかれていたのかもしれない。あの偏屈へんくつな島崎にそこまでにするなんて。さすが神宮寺千鶴、恐るべし。


「姫野……」


 島崎が気まずそうに顔を逸らそうとしたが、千鶴さんに睨まれて肩をびくつかすと、しっかりと姫野に向き直った。


「……すまなかった。全部僕のしたことだ」


 呟く。拳を震わせて絞り出すように、しぶしぶ、そいつは言った。


「貴様、そんな態度で許されると思っているのか?」


 有巣があごを上げて、目を細めながら歩み寄る。


「どんな態度だろうが貴様が簡単に許されるほど、世の中は理不尽じゃ――」

「あーちゃん。待って」


 姫野が右手で有巣を遮った。

 そして小さく息を吐くと、なにかを決意したように柔らかく微笑んで言った。

 その声は、その微笑みは、いつかの表情に似ている。

 けがれない、偽りの無い、すべてを優しく包むような姫野凛の本心からの笑顔だった。


「許します。すべて」

 

 姫野は優しく島崎に手を伸ばす。


 島崎は唖然として、差し出された手と姫野の顔を目で交差させた。

 千鶴さんは額に手を充てて、やられたとでも言うように微笑んだ。

 有巣は絶句して、固まった。

 俺は呆れて、ため息をついた。


 まったく姫野ってやつは……。


「んなっ!? ばっ、馬鹿なんじゃないか貴様っ!?」


 裏返って威力のない怒号どごうをとばしながら、有巣は両手で姫野の肩を揺さぶった。

 姫野は、あららーと首をぐわんぐわんしている。


「貴様、こんなんでいいのか!? 許せないだろ!」


 姫野は必死な有巣の腕を取って、にっこり笑う。


「もういいの。それに、あーちゃんにも恐い顔してほしくないの。どうせ、おっかない顔してののしるんでしょ。あーちゃんにそんな顔してほしくないし、一緒に笑っていられれば、それ以上は求めないよ。あたしは幸せです、嬉しいです。だからこれで終わりにしよ」


 口調は穏やかなのに込められている意思は強い。有巣は姫野に諭されるように硬直こうちょくした。


「き、貴様は本当に大馬鹿者だっ!! もう知らん! 後悔したって知らんからな! このバカ雌鶏っ!!」


 有巣は真っ赤な顔で島崎を睨みつけると、「理不尽だ!」と吐き捨てて、飛びだして行く。

 千鶴さんも「めだたし、めでたし」と豪快に笑って、去っていった。


 文芸部室には俺と姫野、そして島崎が残される。


「あの、そういうことなので、とりあえず立てば?」


 姫野は改めて手を差し出す。だが島崎はそれを素っ気なく振り払った。


「おい、あんたなっ!」

「優馬くん! いいの。大丈夫だから」


 島崎は唇を噛むようにして、無愛想ぶあいそうに黙りこくる。

 やっぱりこんなやつ許すことなかったんじゃないか。俺は歯噛はがみしたが、それでも姫野は「とりあえず、ケリは付けさせてもらうね」と優しく微笑んだ。


「結局あなたのおかげで、あたしはこうやって素直に自分をさらけ出すことができたわけだから、いい機会を貰ったと思ってる。三年間ずっと隠し通すのに比べたら、すごい楽になったし。ありがとうとは絶対言わないけど、プラマイゼロってことでいいの」


 そう言って姫野は島崎に背中を向けた。


「でも、今度あたしの仲間を侮辱ぶじょくしたら許さないから」


 俺からは姫野の表情が見える。

 それは今までの微笑みを感じさせないほどに真剣で鋭い顔だった。


「じゃあ優馬くん、あたし達のCAN部へ帰ろっか!」


 姫野は島崎に向き直ることなく軽快に扉に手をかけて開く。眩しいくらいの日差しが廊下を経由して入り込んだ。


「なあ……姫野」


 後ろから声がした。姫野は止まって耳を傾ける。


「……おまえ、変わったな」


 それは謝罪でも自責じせきでもない。別に今言う必要もないような、そんな一言だった。

 けれども姫野は嬉しそうに笑って振り返る。


「それは違うよ。あたしは昔から変わってない。一度は失いかけたけど、あたしは変わることなく、ずっと、そしてこの先も、姫野凛なんだよ」


 姫野は無邪気にステップを踏むと光の中へ出て行った。

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