第58話-エピローグ。「四人の春」

 放課後の研究棟裏ベンチで優馬は待ちぼうけをくらっていた。

 ここから見える草木はいっそう青が増し、春もすっかり終わりに差し掛かっている。


 ユ涙姫の卒業式。と呼ばれるようになった昼会からはもう二週間が経つ。

 姫野はあっという間に学校中の有名人になり、まるでシンデレラのサクセスストーリーのように語られている。  


 あれからも大変だった。千鶴が入部宣言した上に、勝手に姫野先生のナチュラルメイク術講座なんて開くものだからCAN部は連日大賑おおにぎわい。半月経ってやっと落ち着いてきた。


 凛にメイクを習いにくる者、千鶴に人生相談をしにくる者、都合よく揃った美女三人をカメラに収めにくる者、来客者の目的は様々。


 それともう一つ。昼会で凛のために声を張り上げた麗奈の評判は急上昇。なぜか麗奈に相談事を持ち込み、ずたぼろに罵られているにも関わらず、清々しい顔で帰って行く連中も日に日に増していった。


 新田によると、包み隠さずはっきり言う性格が人気らしい。中にはただ罵られて喜んでいる輩もいるようだけど、本人からすればどれも同じに見えているのだろう。


 一方で優馬の仕事はもっぱらお茶汲みと無断撮影の取り締まり。あいかわらずの雑用だ。


「――報酬はお一人様、お菓子ひとつでっ!」


 そんな甘ったるいことを宣言した凛に対して、


「そんなの理不尽だ! 労働力に見合わんだろうがっ! 貴様は甘過ぎる、脳みそガムシロなんじゃないか!」


 と、麗奈は怒鳴り散らしたが、結局は千鶴の「いいではないか!」の一言で採決。

 おかげでCAN部の知名度と糖分ストックは鰻上うなぎのぼりだ。


 優馬はこの二週間を思い返しながらあいかわらず、じっとりと冷たいベンチに腰かけて夕焼けをぼんやり眺めている。


 そこへCAN部御一行がやってきた。


「優馬くーん、お待たせー! どうどう? 見てみて!!」


 子どものように目をくりくりさせてはしゃぐ凛に手を引かれ、わずかに顔を赤らめている麗奈と、その後ろにはいつも通り堂々とした千鶴。


 さすがの千鶴も今日は便所サンダルではない。

 なぜかというと今からみんなでお出かけなのだ。場所は駅前のゲームセンター。目的はみんなでプリクラを撮ること。麗奈が凛に課した報酬だった。


 凛は、せっかくだから麗奈にメイクを施すと宣言すると、男子禁制と言い放ち、優馬を部室から追い出して、三十分近く出てこなかった。


 凛に押されて、麗奈が優馬の正面に立つ。

 頬がやけに赤いのはチークのせいだろうか。麗奈は恥ずかしそうに身体をよじっては上目遣いで優馬にたずねる。


「ど、どうなんだ? あたしはいつも通りでも良いと言ったんだが、凛が――」


 普段よりも大きく見える黒い瞳。色っぽくきらめく桃色の唇。髪先にはウェーブがかかり、清楚なイメージを残しつつも、どこか色っぽい麗奈に優馬は思わず息を呑んだ。


「――って聞いてるのか、貴様!」

「あ……うん。いいんじゃないか? すごく似合ってる」

「え、あ、と、当然だっ! もとが、いいからな」


 優馬がこっ恥ずかしそうに頬を掻くと、麗奈は耳まで赤く染めてそっぽを向いた。


 そんな二人を見ながら凛は小さくため息をつくと「あたしのメイク術の賜物たまものなんだけどなあ」と苦く笑う。


「あーちゃんはもちろん可愛いけど、あたしはどう?」


 今度は凛が優馬を覗きこむ。

 普段と変わらず橙色の巻き髪があごかすめて柔らかくおどる。ぱっちりとした二重の童顔はそこ抜けに明るい。綿わたのようにふっくらとした唇は優しい形で優馬に向いていた。


 さすがに美女の上目遣いを連続でくらってしまった日には、優馬も顔を赤らめずにはいられなかった。


「姫野も普段どおり似合ってるよ」


 照れ隠しのつもりで素っ気なく感想を述べると、凛はぷくーっと頬を膨らませる。


「えー……。いつもより睫毛まつげ長いし、リップの種類も違うんだけどなぁ……」

「えっ!? そうだったのか??」

「そうなんだよっ! あーあー……ショックだなー。もういいもん。ちづ姉に慰めてもらうもんっ!」


 凛はがっくり肩を落とすと、先に進み始めた千鶴の元へとぼとぼと歩いて行く。


「そんなのわからねえよ」と優馬もため息をついた。


 校門を抜けて、緑の桜並木が続く坂道を下る。薄暮はくぼの町は次第に明かりがともり始め、このままウォータードームにできそうなくらい哀愁あいしゅうに満ちている。


 あいかわらず小さい町だ、と優馬はふいに思った。

 学園の城下町として、なんとか息づいているこの町はまるで老体だ。

 深夜まで栄えているわけではなく、商店街はすでに店じまいを始めている頃。朝は規則正しく目覚めては、学生を送り出す地域住人の声が元気良く聞こえる。優馬が数か月まで暮らしていた都会とは大違いだ。


 別に文明から切り離された過疎かそ地域だと忌避きひしているわけではない。どちらかと言えばその逆だ。コンビニだってあるし、大手のファーストフード店だってある。


 でもここは温かい。


 きっと昔からそうだったのだろう。この町も少しずつ変わっていってるのだろうけど、大切なものが失われていない。


 この町だっていつかは高層ビルが立ち並ぶかもしれないし、商店街は大型ショッピングモールになるかもしれない。大切なものだって失っていくかもしれない。


 けれど、今は確かにここにある。

 それがずっと続いていけばいいな。優馬はそんなふうにも思っていた。


 こんな気持ちになるのは凛のあんな姿を見たからかもしれない。

 凛の大切なものも死んではいなかった。一度は切り捨てられたけれど確かに残っていた。きっとそれは夢とか希望とか、正義とか理念とか、と呼べるものなのかもしれない。


 千鶴と前を歩く凛が優馬には輝かしく映る。


「姫野はいいなあ。すごいよ」


 優馬の口から言葉がこぼれる。


「変りたいって努力すれば、あんなに変われて。それでも大切なものはちゃんと捨てずに持ってたんだよな」


 隣を歩く麗奈がわずかに切ない顔を向けた。


「優馬は自分自身が変わりたいと思っているのか?」

「うーん。どうなんだろうな」


 優馬は首をかしげる。自分の事なのに自分が一番わからない。


「たぶん変わりたいのかもしれない。けど変わっちゃいけないんだと思う」


 有巣はそう語る優馬を見て、一度躊躇ためらったようだったが口を開いた。


「それは……優馬の家の事情と関係があるのか?」


 優馬は少し考えた後に笑って肯く。その姿は鳥かごで微笑む小鳥のようだった。


「そうか……」


 麗奈はうつむいて自分の光沢がかったローファーの先を見つめると、小さく、とても小さく、声をこぼした。


「なあ、優馬……」

「なんだ?」

「以前、父上の話をしてくれたことがあったな」

「ああ。事故の話だよな?」

「そうだ。そのことで一つ、聞きたいことがある」


 麗奈は立ち止まると姫野のように、自信無さげに胸元できゅっと両手を握り合わせた。

 一呼吸置いて、言葉をつむぐ。


「優馬は……、父上が身代わりになって助けた子どものことをどう思う?」

「え……。どう思う……って?」


 それは突拍子もないことだった。

 優馬も足をとめて麗奈を振り返る。


「例えば……もし、優馬の父上が命をして守った、その子どもが優馬の目の前に現れたとして、優馬はどうする?」


 麗奈は優馬の反応を待たずに話を続ける。


「そいつは平然に日常を生きている。だが、その日常は父上の命と引き換えに得たものだ。そして優馬よりも恵まれた環境で生きているとしよう。優馬はそれを許せるか? 憎くないのか? あまりにも理不尽だと思わないか?」


 麗奈の声は上擦って震えていた。メイクアップされて、いつもより大きくはっきりとした黒の瞳は夕日を浴びて、あわく濡れているようにも見える。


 あまりにも真剣な麗奈の表情に優馬はわずかに物怖ものおじしてしまった。


「その子どもが赤信号を横断なんかしなければ、優馬の父親は死なずに済んだんだぞ! 死ぬべきだったのはその子どもだったと思うだろ!」


 それに、今まで考えたことがなかった。

 いや、考えたことがなかったわけじゃない。考えないようにしてきたのだ。

 それを考えてしまえば、もちろん優馬はそいつを憎むだろうとわかっていた。

 そいつさえいなければ……と思ってしまう。

 だが、それは嫌だった。


「それを優馬は、凛のように許すことが……できるか?」


 麗奈のすがりつくような眼差しは優馬の瞳をしっかりと捉えて離さない。


「俺は……」


 優馬は息詰まり、麗奈は息をのむ。

 一瞬の静寂せいじゃく悠久ゆうきゅうの時を感じさせ――、


「許せない」


 優馬はしっかりとこたえを出した。


「そうか……そうだよな……。愚問だった。すまない」


 麗奈は胸元に置いていた両手をゆっくりと和らげると右腕で肩を抱き、どこか生気の無い表情で細い息を吐く。


「――けど」

「……けど?」

「今は、だ」


 優馬は一度落としたまぶたをやんわりと開く。


「いつか許せるようになりたいって思う。……間違ってるかな?」


 不思議そうに目を見張る麗奈に優馬は軽く微笑んだ。


「だって俺がそいつを恨んだりして、その存在を否定しちまったら、親父がしたことを否定するのと同じな気がするんだ。実際今は否定してるんだけど。でもいつか、親父のしたことが正しかったって思いたい」


 優馬は心のどこかでは気付いていた。身体が勝手に動くのは呪いのせいなんかじゃない。

 ただ証明したいのだ。


 父親がとった行動の向こう側に、それと等価のがあるということを。そして、それが正しかったということを。無意識だが自分でその答えを見つけたいと思っているのだ。


 でもまだ優馬はその答えを見つけられていない。なんて理不尽な世の中だろうとも思う。

 しかし、


『――こんな世の中だからこそ強くなれる。許そうと思える』


 凛はそう言った。

 それはきっと、諦めや妥協じゃない。

 彼女は一度見放された世界を受け入れて、そして強くなった。

 ならば自分だってそうなれるのではないのか。

 もがき、苦しみ、でもその中で光を求めて這い上がった姫野に比べて俺はどうだ。


 優馬は自分に問いかける。

 ただ悪戯に現状を受け入れて、諦めているだけなんじゃないのか。

 そうだ、俺はまだ何もしていないじゃないか。

 ならば姫野に言ったように、自分だって諦めてはいけないのではないか。


 だから優馬は言葉を紡ぐ。


「親父のことがあるから、今は人助けとかも、優しいって言われる自分も大嫌いなんだ。もちろん親父が救った子の事も正直憎んでる。けどそれがいつか許せるようになって、親父がしたことも、困ってる人が放っておけない自分自身も、全部が肯定的に受け止められればいいなって思うんだ。だからきっと今、俺はその答えを探してる。人助けだっていくらでもしてやる。困ってるやつがいたら親父と同じように手を差し伸べる。その中でやっぱり人を助けられる程優しいってのは良い事なんだって証明したい――って、なに語ってんだろうな。ごめんごめん」


 照れたように頬をく優馬の横顔を麗奈は驚きを半分、そして小さな星をいつくしむような心境でながめていた。


「……そうか。もしそうなれば、それは……本当に……素晴らしいと思う」


 そう呟く麗奈には見えていた。

 優馬のわずかに火照った横顔に照らし合わせて、かつて自分が心から愛した声が、悲しみを打ち消してくれるような優しい笑顔の面影が、全てが同じに見えていた。


 だが、麗奈はそこから目を逸らす。その笑顔に正面から向き合うにはまだ背負っているものが大きすぎる。


 しかし、麗奈もわかっていた。

 ただ悪戯に現状から目を逸らし、諦めるだけじゃなにも始まらないことを。

 それに、そもそも、目を背けたり逃げることはしょうに合わないことを。

 なにより理不尽だということを。


 だから、麗奈はもう一度優馬の瞳に自分の姿を重ねる。


「優馬。わたしは一つ決めたぞ!」


 突然の決意表明に首をかしげた優馬を麗奈はるように見つめた。


「CAN部を正式に生徒支援の部活にしようと思う。知名度もそこそこ上がったはずだしな。このまま名前の通りの部活にしていこう」

「えっ!? 俺もそれは賛成だけど……有巣はそれでいいのか? 小説はどうすんだよ」

「両方ちゃんとやるから心配するな。それに小説を書くこと自体、一人でいる寂しさを紛ら――いや、暇な時間を潰すためのものだったからな。今は充実している」


 麗奈は思い出す。そういえば小説をすすめてくれたのもあの人だった。裏の無い笑顔で『麗奈の考え方は面白いなぁ! どうだ、小説でも書いてみないか?』ときたものだ。まだ小学生だというのに麗奈はそこから食い入るように本を読み、ペンを取った。


 たまには忙しいところを無理言って一緒に読んでもらうこともあった。今は部室となった部屋で。あの人のひざに座りながら。麗奈はその時間が本当に好きだった。


 一人思い出に浸る麗奈を優馬は怪訝けげんな顔で見つめる。


「充実って、よくそんな言葉が出たもんだよな。相談者を片っ端からののしってただけだろ」

「うるさい。それでも喜んで帰って行ったではないか」

「そりゃ、そうだけど……」

「それに、そうやって活動していけば優馬の探している答えも見つかるかもしれないだろ? わたしは優馬のその願いが早く叶ってほしい」


 それは優馬のためだけじゃない。どちらかといえば自分のためだった。

 でもそれを悟られてはいけない。全ては優馬の想いが実ってからだ。麗奈はそんな自分も後ろめたく思うが、


「えっ……。じゃあもしかして、俺のために?」

「かっ、勘違いするんじゃない。別に貴様のためではなくて……。た、楽しかったのだ。色んな人間が相談しにきて、話ができることが楽しかった。それに帰って行く時に、ありがとうと言われるのも嬉しかった。あと、凛のような人間が一人でも増えればいいな……と思って」


 ちょっと顔を赤らめた優馬に自分も頬を火照らせて素っ気なく返事をする。

 しかし、これも嘘ではないから良いだろうと麗奈は自らを説き伏せた。


「――ふふ」


 少し思い詰めるような顔の麗奈を優馬が笑う。


「なっ! なにかおかしいか!?」

「いや、意外だったなと思って。四月に初めて出会った頃のイメージとは全然違うっていうかさ。有巣って本当は良いやつだよな。いつもそうやって素直にいればいいのに」

「んなっ!? なに言ってんだ……この軽口のぞき武者」

「おいっ! まだそれ継続されてたのかよっ!」

「当たり前だっ! 一生言ってやる!」

「まじかよ……。すげー理不尽じゃん」

「理不尽ではない! 事実だ」


 麗奈は右手で銃の形を作ると、バーンと笑顔で打ち抜いた。

 優馬も呆れ半分に微笑む。


「――おーいっ! あーちゃん、優馬くーん! 早くー! 置いてっちゃうよー!!」


 だいぶ先で凛と千鶴が振り返り、二人に手をひらひらさせている。

 麗奈と優馬は思い出したように小走りで坂道を下ると、待っている二人の間に入り、四人は肩を並べて歩きだした。


 夕日が四人の影を明日の方角へ引き伸ばし、それに沿うように青春は新しい道筋を示す。


 闇の中でも進んでみれば光の差す場所は近くに現れるかもしれないし、紙飛行機だって飛ばさなければ風をつかめない。

 ならば歩きだすしかないだろうし、飛ばすしかないだろう。理不尽だからこそ、愉快で、美しい、この世界で。


 葉桜が夕日を反射させて背後にたたずむ校舎を優しく包む。

 季節は変わりゆく。だが全てのスタートはこの季節しかない。

 春は、始まりの季節だ。

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