第57話-春の追憶。「出会い」②

 天井の水滴がぽちょん、と目の前に落ちてきて湯船で弾けた。

 一緒に入浴中のアヒル隊長をつんと押すと黄色いボディは軽快にお湯を泳ぎ、端にぶつかってこちらに向き直る。気怠そうな顔がどことなく彼に似ているとあたしは思った。


 瞳を閉じると浮かぶもう一人の名前は武者小路優馬。別名、八組の優男くん。笑っちゃうけどあたしが付けた渾名だ。


 そんなに目立った特徴はないけど、あたし的にはかっこいい方だと思う。

 落ち着いてて、しっかり者で、でも熱いとこもあって、たまにふと悲しそうな顔をする。あと絶望的なほど鈍感。彼もあたしの大切な……大切な友達。今のところはね。


 ――武者小路優馬という人物に出会ったのは四月の上旬。


 桜並木が綺麗に咲き揃い、期待と不安に胸躍らせていたあの日。試練はいきなり訪れた。

 新入生のオリエンテーションがあったのだ。俗にいう親睦会。レクゲーム。


 どこもかしこも笑顔が弾け飛び、新しい仲間と新しい生活の幕開けに酔いしれている。

 しかし、あたしはどん底だった。入学式と初めてのクラスルームでは友達ができなかったのだ。


 出席番号の運が悪く、周りには男子ばかり。それに予想に反して髪を染めている子が少なかった。あまり派手すぎないようにとブラウンを選んだのだが、それでも明るい。


 みんなからどう思われているのだろうと不安になった上に、コミュ力の完全なる低下により、あたしは誰とも会話しないまま、その行事に突入してしまったのだ。


 とりあえず無駄に広い体育館で大量の新入生が散らばる。


 最初のゲームは『動物狩りに行こうよ』だった。小学生じゃあるまいし。

 ルールを知っていたから、なおさら悲惨ひさんだった。


 このゲームはお題が出される。例えば「」だとしよう。四文字だ。そうしたら四人集めて、手を繋ぎ、輪になって座る。つまりは文字数分の人数で集まるのだ。


 みんなもう、ある程度仲良くなった人たちと固まっている。

 あたしは恐くなって隅っこに逃げた。まるで空気に溶け込むかのように。


 お題が出される。。なんだそれ。


 ところどころ集まっては、指を示し合って人を数える。それをあたしは遠くに見ていた。

 そっか。そういえばあたしは空気姫だった。みんなにあたしのことは見えない。


 自分から行こうともしないのに、あたしはそんな悲観的になっている。

 あーあ、どうしようもないな、あたし。そう想って目を伏せる。また泣きそうだった。


「――ねぇ、君」


 いいなあ、あたしもあんなふうに誰かに――。


「ねぇってば! 聞いてんの?」


 かなり近いところから声がした。驚いて顔を上げる。

 目の前。本当に手を伸ばしたら届くところに、その人はいた。


 癖っ毛がいい感じにアクセントになっている髪に、優しい声とは対照にそれなりに勇ましい顔をしている。


「えっ!? あ、あたし?」

「他に誰がいんの?」

「あたしが……見えるの?」

「なにそれ、持ちネタ? まあいいから俺達のとこ来てよ。一人足りないんだ」

「え、あっ、はい」


 あたしは考える間もなく返事をした。


「そういえば、名前は?」

「姫野……凛」

「そっか、よろしくな、姫野。俺は武者小路優馬。優しいに馬って書いて優馬」


 頭がぼんやりする。心臓が熱い。どくどくと音を立てては激しく脳を揺さぶる。

 今聞いた彼の名前すら思い出せないくらい、あたしの頭は機能不全きのうふぜんになっていた。


「おーい、新田ぁ! こっちだ、こっちー!!」


 彼がそう呼ぶと十人ほどの男女混合の団体がぞろぞろとこっちに向かってくる。


 ああ、あたし仲間に入れてもらえたんだ。嬉しいな。

 彼の背中に今にも倒れ込みそうなほど、あたしの心は飛び跳ねていた。


 そうだ、今、これはチャンスだ。ここでお近づきになっておかない手はない。とりあえず、ありがとうの一言くらい言わなければ人間失格だ。


 彼の背中に呼びかける。しかし、名前が思い出せない。

 苗字は難しかった、全然出てこない。名前は確か、優しいに……、ふいに昨日読んだファッション誌を思い出す。


 巻頭の特別コーナー。この春、優男やさおを捕まえる七つのモテ・テクニック❤。


「――優男やさおくんっ! ありがとっ!!」


 その声は予想以上に大きく発されていた。

 彼があたしを見つめ、その仲間たちも、きょとんとした顔でこちらを見ている。


「優男って……もしかして俺のこと?」


 彼が苦笑いでたずねてくる。

 まずい、やってしまった。でも緊張とか焦りとかで、もう止まれなかった。


「そ、そうです! あたしを誘ってくれた優しい優男くん!」

「いや、まあ、別にいいんだけど――って、ごふっ!」


 後ろでやけに明るめな茶髪男子が、優男くんの首に絞め技をかけた。


「優馬ばっか、ずるいじゃないか! こんな可愛い子とお知り合いになった上に優男とまで呼ばせるとは罪な男だ。絞めてやるっ!」

「新田、おまえっ、ふざけんな! 俺だって今――うがっ!」


 そうだ、優馬くんだった。あたしが優馬くんと新田くんのやりとりを不安そうに眺めていると、横から前から声がする。あっという間に囲まれていた。


「可愛いー! めっちゃ、ふわっとしてるし! ねぇ、アタシとも友達になってよ!」

「ほんとだ! さっき教室で見たよ! 同じクラスだからよろしくね」

「わたしもー! そうだそうだ、名前教えてよ、名前!」

「え、あの、その、姫野凛です」

「姫だってー、ぴったりだよー! よろしくねっ、ヒメリン」

「よろしく!」「よろしくー」「はじめまして」「俺、隣のクラス、六組だから!」

「あっ、はい、こちらこそよろしくっ!」

「新田、もう放せ! とにかく座るぞ!」


 やっとヘッドロックから解放された優馬くんが手を差し伸べてきた。


「ほら、座るぞ。俺達が一番最後みたいだし」

「さすが優男!」「エスコート上手っ!」「かっこいい!」

「うるさい! おまえらも黙って早くお座りなさいっ! ……ったく、こいつら。俺だって初めましてなのにやたらと馴れ馴れしくてさ、悪いな」


 なんだかんだ、ちゃかされつつ優馬くんはあたしの手を取って、一緒に座ってくれた。

 そう、その人は空気だったあたしをそこから連れ出してくれたのだ。あたしを見つけてくれたのだ。


「おい、姫野……。どうして、泣いてるんだ?」


 優馬くんが心配そうに覗きこんでくる。

 周りのみんながまた、「いじめたー」だの「優男サイテー」だの言っている。


「えっ、あっ! なんでだろ? 目にゴミでも入ったみたい……。心配かけてごめんね」

「いや、大丈夫ならいいんだけど」


 そう言って、らした優馬くんの横顔をあたしは微笑んで見つめていた。


 その後は一緒に座った女の子たちと仲良くなれたし、髪のことも心配無かった。なんたって新田くんの方があたしよりも数段明るかったし。


 ただ一つ心残りとすれば、優馬くんの渾名あだながすっかり優男・・で定着してしまったことである。本人はあまり気にしてないから良いと言うけど。とりあえず、ごめんなさい。


 それから約二か月後。あたしは鈍感・・という言葉の本当の恐ろしさを知ることになる。


 ――そんな二人にまた明日も会える。


「人生まだまだ捨てたもんじゃないな」


 あたしはそう一人ごちて、瞳を閉じた。

 いつもより熱い目頭も、左胸も、あんなに嫌いだった自分自身も、今はすべてが愛おしい。

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