第56話-春の追憶。「出会い」①

 帰宅して一番にバスタブへ直行した。過労モードの精神と肉体をいやすためだ。


 今はもう鏡を見ても前ほど嫌じゃない。だいだいに近い栗色の髪も改めて見るとよく馴染なじんでいる。なんて自画自賛じがじさん


 だってこんなあたしを受け入れてくれる人がいるのだ。少しくらい自分をこころよく思ったっていいはずだ。


「嬉しいなぁ……」


 蒸気のせいだろうか。世界が少し潤んで目を閉じた。

 脳裏に浮かぶのは二人の面影。二人揃って客席から叫ぶ姿。


 一人の名前は有巣麗奈。性格は鬼のようだけど容姿端麗で博学秀才な女の子。ちなみにBL小説を書いているなんて笑っちゃうくらい不釣り合いな趣味を持っている、あたしの大切な友達。


 ――有巣麗奈に初めて出会ったのは、二月の下旬。あたしの髪もまだ黒かった。


 凍てつく桜並木が北風にあおられて、あたしの心を映したように寂しげだったのをよく覚えている。あれは珍しく都心でも雪が降った翌日、星砂高校の受験合否発表の日。

 学生時代としては貴重すぎる一年間を棒に振り、再び校門と名の付く異世界ゲートをくぐった、あの日だ。


 引きこもっていた時にインターネットを見ていたら、なにげなくこの高校が検索されて、なんとなく綺麗でいいなと思った。地元からも遠いし、同期で入学した人も聞いてない。ここなら失った時間を取り戻すくらい楽しい日々が送れるのではないかと勝手に想像した。


 他の高校に併願はしなかった。もう人生終わったような気でいたから、駄目ならそれで仕方ないと思っていたのだ。


 だが、ポケットで受験票を握る手は熱く興奮していたのを思い出す。

 なぜなら予防線を張る脳とは裏腹に、心はこれ以上にない希望をはらんでいたのだ。


 この高校に行きたい。久方ぶりに両親と目を合わせて、そう伝えたら泣きながら肯定してくれて、それ以上は何も求められなかった。それがあたしを本気にさせたのだ。


 人気の高校だから倍率は高いと聞いたけど、ここで変わらなければ、きっと二度との光は浴びることはないだろう。そう決意してすべてを注ぎこんだ。


 寝ているだけの生活から机に向かうようになった。

 髪も肌の手入れも欠かさなかった。

 何より、ちゃんと生きている気ができた。そしてこれからも……。


 そして、あの日だ。校門を通り越した後からの記憶は曖昧だった。


 きっと合格発表を見る前から泣いていたかもしれない。

 そして結果を見て、やはり涙が零れたのだ。いや、今思い出すとそんな可愛いものではない。嗚咽おえつと涙がいっきに押し寄せて、号泣寸前だった。


 他にも合格発表を見に来た人であふれている。さすがにこの大衆の中、声を張り上げて泣くわけにはいかない。あたしは走ることで声を殺しながら、一目散にその場を後にした。


「ここ……どこ?」


 しばらく走った後、近くにあったベンチに腰掛ける。学校の敷地内であることに間違いなさそうだが、木が生い茂っていて、後ろには白塗りのマンションみたいな建物がある。

 どうやらここには日差しが入らないようだ。


 とりあえず落ち着こうとしたそのとき、


『おい、金出せよ! 約束したよな? 今日持ってきてくれるんだろ?』

『ご、ごめん……もう、お金は渡せないんだ……』

『なんだと、てめえ!』


 どぐっ。と少し奥まった木の陰から肉のぶつかる音が聞こえた。

 その方を向く。間違いなくそれは――――いや、気にするのはやめよう。

 けれど……。あたしは恐る恐る歩み寄った。その光景が目に入る。


 ひ弱な少年の前にはがらの悪そうな男が二人。どちらも中等部の制服だ。


「やっぱりどこにでもあるんだな。こういうの」


 あたしの足は大きく一歩引いていた。それは自分の経験則けいけんそくが関わるなと警戒信号を出したからだ。


 ばしんっ。と、また殴る音がする。

 あたしはその方に背中を向けて歩きだした。

 左胸が痛い。理由はわかってる。


 あたしはいつからこんなに薄情者はくじょうものになったんだろう。さっきとは違う涙が出そうになる。

 でもこれでいいんだ。そう自分に言い聞かせ、目頭めがしらを押さえたそのとき、


『――なにをしているんだ! 貴様らっ!』


 それは痛烈にあたしの耳を貫いた。

 大人の声ではない。女の子の声だ。驚いて振り向く。


 そこには彼らと同じ柄の制服を身にまとった美少女が一人。あたしとは比べものにならないくらい繊細な黒い髪を片方だけリボンで縛った少女だ。顔も申し分ないほど整っている。


 しかし、その表情は噴火したての火山のように荒れ狂っていた。


『貴様ら、自分のしていることが恥ずかしくなのか。このおろか者ども!』


 その姿はあまりにも堂々として不敵だった。


『なんだと、この――』

『おい、やめとけ、アリスだぞ! 高等部の神宮寺から何されるかわかんねえだろ』

『ちっ……。仕方ねえな』


 その少女を見るや否や、男たちはばつの悪い顔をして退散していく。と呼ばれたその人自体が脅威きょういのようだった。


 アリスはふん、と息を鳴らすと、倒れていた少年に手を差し伸べる。

 そして、少年がその手を取ろうとした瞬間。


 ――どすっ。


 有巣は差し伸べた手をそのまま少年の脳天に叩きつけた。

 助けた人間にチョップをくらわす。見ているこっちもかなり驚いた。


『貴様も情けないと思わんのかっ! このヘタレが!!』


 少年は涙ぐむ。


『あんなの理不尽極まりないだろうが! 理不尽にくっするんじゃない、このが!!』


 美少女とヘタレの相乗効果そうじょうこうかで彼はすっかりまいってしまっていた。


 アリスはそのまま彼を起こすことなくその場から立ち去り――こちらに向かってくる。


「やばっ……」


 あたしは身をひるがえそうとしたが時すでに遅し。アリスと目が合う。


「ん……? 貴様はなにをしているのだ?」

「い、いやっ、大きな声が、したから、どうしたのかな、と、思って」


 さすがに黙って見ていましたとも言えず、あたしは嘘をついた。というより家族以外の人間と話すのが、あまりにも久々だったために、上手くが回らない。


「そうか。まあ貴様が気にすることではない。それより、なんで貴様は泣いているんだ?」

「えっ……」


 はっとして頬を探る。確かにそこには熱い滴が留まることなく流れていた。


「ふふ。自分が泣いているのにも気が付かないなんて面白い奴だな。ほれ」


 アリスはくすっと笑うと、自分のハンカチであたしの涙を拭う。


 その人の笑顔はまた一段と綺麗だった。日差しの無いこの場所で、その人の微笑みはまるでの光そのもの。

 なんて素敵な人だろう。なんて凛々りりしい人だろう。たぶんこの涙は……。


「あ、ありがとうございます!」


 あたしは頭を下げた。


「そういえば見慣れない顔だな? この学園の人間か?」

「あっ、えっ、あの、あたし、来年に星砂高校に入学する者です」


 思わず敬語になっていた。

 するとアリスは納得した顔で再び優しく笑う。


「そうか。そういえば今日は合否発表があるらしいな。おめでとう、とでも言っておくべきか……。ちなみにわたしも来年から高等部の一年だ。よろしくな」

「は、はいっ! ありがとうございます! こちらこそ、よろしくお願いします!」


 そういうとアリスはあたしの返事をろくに聞くまでもなく、すぐに去って行った。


 アリス。名前もちゃんと聞かなかったし、自分も名乗り忘れたけど、その名前だけは鮮明に残っていた。


 たぶん、あの人はあたしのことを気にも留めていないし、覚えてもいないだろう。

 しかし、あたしはその時、間違いなくアリスという人にあこがれた。

 自分ができないことを、それ以上のことをやってみせる姿に感動したのだ。

 羨ましかった。入学したら、絶対に友達になろう。あの人ならきっと……。


 そんな期待に胸を膨らませた二月のあの日。

 が苗字だったと驚く、約二か月前の話だ。

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