第22話-妹と高校生活②

 食事と風呂を済ませると、唯が掘りごたつで口をへの字にしながら家計簿をつけていた。


「どうした?」


 冷蔵庫から二人分のお茶を取り出しながら、俺は真剣な口調で聞く。我が家ではお金の話になると少し緊張した空気が流れるのだ。


「ううん、今月もぎりぎりだなと思いまして」


 主婦か。とても中三とは思えない。


「そっか……。でも俺もすぐ給料が入るし、とりあえず安泰あんたいだろ。楽しみだな! 牛肉買ってやろうか?」

「そうですね……。あの、ゆうちゃん、ごめんなさい……」


 部屋の古ぼけた電灯がうっすらと弱まった。そんな脆弱な光の下で唯がつぶやく。


「なんで謝るんだよ」

「だって、せっかくのお給料なのに、ゆいたちのために・・・・・・」


 明るく振る舞ったぶん、目を合わせない唯の言葉が一層重かった。


「唯は優しいな。でも気にするな! それに俺は唯たちが幸せそうにしているのが一番幸せなんだ。そのためなら、なんだって頑張れるぞ」


 俺は俯く妹の前にお茶を置いて、ぽんと頭を撫でる。


「それに唯だって、妹たちの世話とかをしっかりしてくれるじゃないか。最近は夕食も上手く作れるようになったし。今日も美味かったぞ、あの豆腐ハンバーグ」

「……ありがとです。でも料理はゆうちゃんに教わった通りに作っただけですから」


 多くは語らないが、そのありがとうには物分りの良い妹の色んな想いがこもっている。そんなに労われて、お兄ちゃん感激。ここは俺には十分なほど幸せな家庭だ。


『お金がなくても楽しく幸せ。協力ハッピー、肉最高!!』


 書き初め用の長い半紙に乱雑に書かれている家訓は忠実に守られている。

 だが、いくら幸せであっても、いくら協力的であっても、経済状況が良くなるわけでもないし、無いものは無いのだ。


 妹たちも小さいから母さんもフルでは働けないし、親父の保険金や貯蓄も底を尽きる。頼れる親戚がいるわけでもない。他人が見たらこういうのを不憫ふびんっていうのだろうか。


 生活は苦しく、それに伴う弊害も多い。それに一番耐え難いのは唯の青春の無駄遣いだ。

 俺の事は良いが、唯には家事なんかせず、学校生活を満喫してほしい。しかし家族五人が暮らしていくには、こういう環境にならざるを得なかった。


 寂しげにお茶をすする唯を愛おしく見つめながら思う。


 でも別に悪いことばかりじゃない。今日みたいに「妹達に食べさせておやり」と廃棄の惣菜を貰えたりするし、親切な商店街の人達がサービスしてくれたりもする。あと、


「ま、家があって、学費がかからないだけましだろ」

「そうですね、みんな仲良く一緒に学校行けますし」


 俺達はいつも通り笑い合った。


 不幸の中にもそれなりに幸せってものは存在している。

 そんな俺達の最近の幸せはなんと言っても、四兄妹がこの春から全員仲良く、星砂学園に通っているということだ。


 ――それは本当に突然だった。周りが高校受験なるもので息まいている時にそれは前触れもなく宅急便に乗っかって、我が家にやってきた。


 当時の口癖と言えば、就職。同級生が受験勉強に精を出す中で、一人就職を決意した俺は進学を勧める母と教師と何度も対立していた。


 今時、最終学歴が中卒だなんて将来輝かしいものじゃないし、ちゃんと高校を卒業させてやりたいという親の気持ちはわかる。しかし、今年から小学生になる双子や唯に俺の学費を削ってでもなるべく良い生活をしてほしいという意志は固かった。


 そんな俺の意志に風穴を開けるようにやってきた梱包こんぽう。開けるとそこには大量の教科書と『特待生制度のご案内』と印字された四枚の書類。

 それは兄妹全員分の私立星砂学園への入学案内だった。


 しかも学費は全員が高等部を卒業まで免除……だと。

 それを見た時はさすがに顎が外れるくらい驚いた。外れなかったけど。


 なんたってあの星砂高校である。歴史の浅い学校ではあるが、その環境と設備の良さは高校受験をする気の無かった俺でさえ知っていたし、周りの受験生たちの憧れの私立高校だった。しかもそれが全員高等部卒業まで無料。美味しい話ほど疑えと育てられてきた俺でもさすがに目がくらんだ。


 今でさえ、なぜ俺たちにそんな権利が与えられたのかはわからないが、気にしても仕方のないことだし、結局得をしているのだから深く考えることはなかった。


 これを期に俺は進学へと畳み込められたのである。


 加えて、学校に近い親父の実家が祖父母の死後もそのまま維持されていたから、今年からここが新しい我が家となった。三月まで住んでいた都心部とは違って多少の不便さはあるが、商店街が生き生きとしているこの町は気に入っている。


 このように、たまたま幸運が重なって、今ここで無事高校に通うことができている。しかも日中は兄妹一緒の敷地内にいるのだ。不安なことが一切ないといったら嘘になるけど、とても恵まれた環境にいる。


 親父が死んで辛い想いもたくさんしてきた。その埋め合わせってやつがちゃんとできているのだろう。裏口入学、万々歳だった。


「学校は上手くいってるのか?」


 唯のことが心配だった俺は年度明けから何度もこの質問をしている。

 俺とツインズは今年から高校部、小学部と区切り良く学校生活をスタートできたが、唯だけは中学三年という中途半端な時期に転校となった。


 二年も経ち、できあがっている集団の中に私学としては異例の転校生がくる。

 ちゃんと友達はいるのだろうか。いじめられてはいないだろうか。お兄ちゃんは心配で心配で仕方ない。


「だからー。ちゃんと楽しくやってますよ。ゆうちゃんは心配性すぎです」

「当然だ。俺の大切なシスターズにもしもがあったらと思うと平常心を保てないからな!」


 かっこいいことを言ったと思ったが苦笑いの反応だった。なんでかな。

 俺の渋い顔を笑いながら唯が続ける。


「それにみんな優しくて。……そうそう、お弁当とか学食のお肉分けてくれるんですよ!」


 それは聞かなかったことにしよう。唯が他人の肉を見て、うっとりとしている姿が目に浮かぶ。俺はちょっと憂鬱ゆううつになりながらお茶をすすった。


「あと学校で話題になったんですけど、ゆうちゃんはさんって人知ってます?」


 ごふっと喉が鳴って、お茶がぶり返す。


「し、知らないなあ」

「そうですか……。今年高等部に行った卒業生の有巣さんっていう、すごい綺麗な人がいるらしいんですけど、その人の話が色々と面白くてですねっ――」


 それからは俺自身もどこかで聞いたことのある有巣伝説を語られたあげく、「友達になったら教えてください」と言われる始末。


 そういえば有巣や新田は中等部からエスカレーターだったと聞いた。その新田によると、有巣は中等部の時からあの性格らしい。


 唯の話す伝説内容は「理不尽だ!」と激怒しながら男子学生を罵ったとか、高等部の生徒を相手に口喧嘩で理詰りつめたとか、中には教師までも言いくるめて授業内容を変更させたとか尾ヒレをつけたようなものなど、有巣にまつわる噂は多種多様である。


 そんな有名人、有巣麗奈と過ごしたここ数日。そしてこれから……。


 唯を目の前にもう一度考える。脳内議題はCAN部の件。

 俺が部活なんか始めたら唯の負担はもちろん多くなる。それに俺がやるくらいなら唯にやらせてやりたいという気持ちもある。


 そんなことを考えていた時だった。妹の顔が非常に近くにあることに気付く。


「んおっ、どうした?」

「ゆうちゃん。なにか黙っていることがありませんか?」

「え、別にないけど。……なんでだ?」

「そんなことないのです。その顔はなにか悩んでいますね。ゆいにはお見通しなのです」


 唯は一度むすっとした顔を向けると、すぐに悲しそうにうつむいて小声を溢す。


「それにその顔は、ゆい達のために自分を犠牲にしようとしている顔なのです……」


 唇を噛みしめる唯が刹那すぎてため息が出る。この顔に嘘はつけない。

 俺はもう一度頭を撫でてやると、部活に誘われていることと、その活動日だけを話した。

 有巣の名前はもちろん出さない。


「なし崩し的に話が進んだだけだから、明日断って――」

「やってください」


 言いかけると唯は身を乗り出し、俺の口を両手で覆う。覆われた手の中でふごふご言う俺を目で牽制けんせいして、さらに言葉に力を込める。


「三年前……。ゆうちゃんが中学生になった春に、昔パパさんからもらったサッカーボールを捨てたの、唯は見ていました。辛そうな顔をしていたのを見てました!」


 どっちが辛そうな顔だよ。唯の悲痛な顔に、封じられた口は動くことができなかった。


 それにその時のことはよく覚えている。たぶん決別したかったのだろう。あの日、ボールを捨てた透明な袋の中に、大切な何かを一緒に捨ててしまったのもしっかり覚えている。


「ゆうちゃんは高校生になってアルバイトを始めました。ゆい達のために……。それに星砂の特待生じゃなかったら働いてたって……」


 唯はぐっと手を押し込む。さすがに口が痛くなるので、彼女の小さな両手を引きはがし、ちゃんと聞くからと言って、お互い座り直した。


「だから、ゆうちゃんにはもっと学校を楽しんでほしいのです。あの時と違ってゆいだって家事くらいできるようになったのですから!」

「でも俺がそんなことで時間使ったら、唯だって――ウッ」


 言い返そうとすると、唯は眉間みけんに皺を寄せて、また俺の口をふさぐ。


「と、とにかく毎日じゃないんだし、やってみてください。いい加減言うこと聞かないと明日の晩御飯、ゆうちゃんのだけ作ってあげませんからねッ!」


 それは嫌だけど……。それよりも眼鏡の下の赤みを帯びた真っ直ぐな瞳にやられて俺は反論を申し立てられなかった。


「じゃあもう寝ます。ママさんにはゆいからも言っておくので!」


 そう言って立ち上がった唯はふすまを開けて部屋から出ると、上目遣いで振り向く。


「さっき、ゆい達が幸せそうにしているのが一番幸せなんだ。と言いましたね」

「ん……。ああ、言ったな」

「それはゆいだって同じです。ゆうちゃんがやりたいことをやって、幸せそうにしているのがゆいだって一番幸せなのです」


 そして丁寧に、おやすみなさいとお辞儀して襖を閉める妹を俺は遠い視点で見送った。


「まったく、いつの間にこんなに立派になったんだよ。良いいいこに育てすぎたかな……」


 こうして家でもなし崩し的に俺の部活動加入は決まった。


 翌日、結局自分で入部届に保護者印鑑を押す俺を嬉しそうにのぞき込む唯が、部活名に疑問を持ったらしく、説明を求めてきたが実際俺にもどうなるかまだわからない。

 だから、とりあえずこう言っておいた。


「この入部届を出すと、俺と創造的で活動的な可能が始まるらしい」

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