第Ⅱ部 ~瞬きの夏。彩眼竜とデス・エンド~

第1話-プロローグ。「一人と四人の夏」

「はぁ…………」


 伊達だて冬華とうかは生気を吐くようにため息をこぼすと、玄関の鍵を開ける。


 予想外の雨に降られた。生暖かい滴が前髪から落ちる。

 びしょ濡れの身体で真っ暗な廊下を抜け、洗面所へ進む。途中で誰もいないリビングにスクールバッグを投げ捨てると、びしゃりと嫌な音が弾けた。


 梅雨の夕立は嫌いだ。多湿で、強くて、まとわりつくような不快感が全身を支配する。

 でもそれはいつも通りか、と冬華は洗面の鏡に映る自分の顔をまわしく睨んだ。


 薄銀はくぎんでショートボブの髪。目つきの悪さと相反する幼い顔つき。今にも消え入りそうな右目のあわい輝き。そして左をおおう黒い眼帯。


 自分の顔から視線を逸らして、タオルで濡れた首筋をはらう。喉元を割くように強く拭いたのだが、頭から上が落ちるなんてことはありえなかった。


 この世界はいつも水無月みなづきの雨の中だ。なぜ水が無いなんて言えるのか想像ができない。

 息苦しいし、鬱陶うっとうしい。日が差しても気色悪い暖かさがあって生きた心地がしない。


 学校も、人も、奴等が自分に向って放つ空気も、全部嫌いだ。世界におぼれているような気分になる。自分だけがこの世界で沈んでいくような感覚におちいる。


「くそ……」


 冬華は誰に対してでもなく悪態をついた。


 わからない。真実とはいったい何なのだろう。

 予想や価値観という概念はなぜこんなにも自分を世界から切り離すのだろう。

 雨だって降るようで降らない時もあるし、晴れでも突然曇天どんてんが空を覆うこともある。


 本当だったら今日も予報では晴れだったはずだ。けど雨は降った。どしゃ降りだ。予報士の見当違いもはなはだしい。いったい何を根拠に翌日の天気を結論付けているというのか。


 やはり超近代的なコンピューターが算出したデータなのだろう。そしてその結果を、目に見えるその答えだけを、ただつらつらと垂れ流しているのだ。


 そうだ。人というのはその本質を知ろうとする前に一度、視覚というフィルターを通す。

 偏見、思い込み、ステレオタイプ、先入観。そんなものに支配されながら日々を生きている。そして見えたものが自分の常識を逸脱いつだつしたら、それは見えなかったものとなる。


 冬華は濡れた眼帯を外してもう一度鏡を見た。

 そこに写るのはどこまでも深くてあかよどんだ輝き。いつ見ても痛々しい左目のいびつ彩色さいしょく。だが、この瞳でなら真実を映すことができる。


 しかし、だからこそ、この目は隠しておかなくてはいけない。

 見えてしまうのだ。自分が世界に受け入れられていないということが。


 冬華は唇を噛みしめると眼帯を握りつぶしてゴミ箱に放る。


「もう……嫌だ……」


 制服を脱ぎ捨てて、ワイシャツを無造作に洗濯機につっこみ、身に付けているすべてを外す。そしてすぐ横にある全身鏡の前に立った。


 一点を除いては自分だって他のみんなと変わらないはずだ。

 なのに、みんなその真紅の一点だけを見て、自分と住んでいる世界をわける。私を違う世界の住人にする。私だってココにいるのに。


 なぜだろうか、鏡に写ったオッドアイの少女の目には涙が浮かんでいた。それはもちろん透明だ。赤い涙が流れるわけなどない。


 だからこそ冬華は思う。

 見えているものが全てだというのなら。

 この紅い眼で見る世界が正しいというのなら。

 自分はきっと、この世界には必要な存在ではないのかもしれない。

 それならば、できることならば、この世界から自分は――。


 冬華は自室のベッドに戻り、そのまま倒れて瞼を閉じる。

 雨上がりの外には大きな虹が架かっていたが、彼女がそれを見ることはなかった。


 ☆ ☆ ☆


「飛びたい!」

「は?」

「だーかーらー、鳥みたいに翼を付けてさ、大空を自由に飛び回ってみたいよね! アイム・フライング・ワッショイ!! 的なっ!」


 りんが地に足をつけたまま両手で羽ばたきだした時、麗奈れなのこめかみがピキッと割れる音を優馬ゆうまは聞いた。


 突然降った夕立は止み、どこかみずみずしい斜陽しゃようが差し込む部室。

 そこで行われていたのは、本来ならばCAN部への依頼としてありそうな「高校生ができるようになりたいことを考えよう」という話合いだったはずだ。それがなぜ鳥人間大会の話になったのかはわからない。


 ただ一つ言えることは、凛の思考回路が鳥並みに羽ばたいている、ということだった。


「真面目にやらんかこの雌鶏めんどりがぁぁぁぁぁ! 胸部の贅肉ぜいにくごと羽をもいでやるっ!」

「いやぁぁぁぁ! 実際に羽ないからぁぁぁ! 許してぇぇぇぇ」


 紅茶を程良くドリップしている優馬の後ろで怒号と悲鳴が響く。しかし、そんな些細なことはもう気にならなくなっていた。


 馴れとは恐ろしいものだとため息を吐きながら、凛のマグカップにだけは戸棚の奥にしまってあったエナジードリンクを入れる。翼が授けられますようになんて優しさを込めて。


 ユ涙姫の卒業式と呼ばれる、凛の学校を巻き込んだ一世一代の大勝負からは一ヶ月が経った。その直後は千鶴の宣伝効果もあり、連日利用者が絶えなかったCAN部も、ほとぼりが冷めた今や閑散かんさんとした日々が続いている。


 これが本来の姿なのだろうと思いながら優馬はそれぞれのカップを持つと、いつまでもさわわめいている二人のもとへ歩み寄った。


 なぜか凛が床で土下座をしていて、麗奈がその真上で罵詈雑言ばりぞうごんを巻き散らかしている。無駄に外見のスペックが高い二人が故に、むなしく見えるのは気のせいだろうか。


「ほら、有巣。いったん落ち着けよ。角砂糖五つだぞ」

「ふん、いらん!」


 しなやかな黒い髪を手で払い、そっぽを向く。これは麗奈が機嫌を損ねて意地を張っているときの仕草だ。優馬はそれを知った上でわざとらしく言い返す。


「有巣が紅茶淹れろって言ったのに……。もう今日はいっさい作ってやらないからな」

「んなっ! そんなの理不尽――」

「理不尽なのはおまえだ。文句言うなら今度から自分で淹れなさい」

「うぅぅぅ……ぐぅ。覗き武者のくせに……」

「まだそれ言うか……。いいから糖分補給しとけよ、ほれ」


 子どもをあやすように口元にカップを近づけると、麗奈は不満だだ漏れの上目遣いで受け取る。しかし紅茶に一口触れると、どこか満足したようにほんのりと頬をゆるめた。今日も麗奈好みの一杯を提供できたらしい。


「いつもよりミルク多めにしてみたんだけど、どうだ?」


 尋ねると麗奈は湯気で火照る頬をそのままに、こくりと肯いた。こういう時はあどけなくて鬼畜嬢の姿が消え失せる。


 烏羽色からすはいろの大きな瞳に雪のように白い肌。漆塗りのような長い髪は今日も耳元の赤いリボンで一つに結わかれている。

 最近は温かくなったからとブレザーを脱ぎ、ワンポイントの黒カーディガンを身に付けているのだが、少しサイズが大きいらしく、それはそれでぽてっとして可愛らしい。


 サイズが大きく見えるのは本来なら胸部の張りのためにある生地の余裕が麗奈には必要ないため、その分が余ってしまったのだろう。


 なんて優馬は心の声を溢しながら単純に機嫌を取り戻した鬼畜嬢を見計らって、次に床で平伏ひれふしている橙色の少女に声をかける。


「ほら、姫野もいつまでも倒れてないで起きろ。いきなり人が来たらこの状況どう説明すればいいんだよ」

「だってぇ……だってー、あーちゃんがいじめるんだもん……グスン……」

「わたしはいじめてなどおらん! この雌鶏がわけのわからない」

「わかった! わかったから、有巣は黙ってそれを飲んどけ!」

「うぅぅ……優馬くんありがどぉぉぉ……」


 涙を目尻に溜めながら凛は泣きつくようにマグカップを受け取る。その様子を見て麗奈はしかめ面で鼻を鳴らした。


「そういえば姫野もブレザー着てないんだな」

「そだよー、もう暑いしね。今日もじめじめだし、なめくじになっちゃうよ」

「なめくじはよくわからないけど……」


 衣が変わってもあいかわらず幼稚園児みたいな彩色をしている凛は恒例のオレンジのパーカーのチャックを胸元まで閉めて、そこに艶めかしく膨らみを乗せている。

 肘近くまでめくり上げられた袖。ふんわりと巻かれたミディアムな栗毛。常に装着されている橙のカチューシャ。そして明るい頬と垂れ目の童顔。まさに元気な幼女という風貌ふうぼうだ。実年齢が一つ上とは優馬には到底思えなかった。


「うっはぁぁぁ! なんだこれ、炭酸!? しかも美味しい! あーちゃんも飲む?」

「飲まん!」


 凛は麗奈の殺伐さつばつとした返事を聞き流し、定位置のバランスボールに跨るとぼんぼんねながらいっきに飲み干した。


 そして、


「やばい……。身体振ったせいでお腹で炭酸が膨張して――ゲプッ!」

「凛……、貴様ぁぁぁぁぁぁぁぁ……」

「あ、その、あーちゃん待って! ごめんな――グプッ!」


 早くも有巣の血管がぶつりと切れた音がした。

 第二ラウンドが始まろうとして優馬が身構えた時、中庭に面したCAN部の全面窓が乱雑に開かれる。


「やあやあ、おまえ達! 千鶴姉さんだぞ!」

「ナイスタイミングです千鶴さん!」


 戦慄する凛に大股で一歩近づいた麗奈が身をひるがえし、優馬は親指を立てた。あいかわらずのことだが、麗奈は千鶴の前だと少しおとなしい。


「ん? なにがナイスなのかはわからんが、まあ良い! ハッハッハ!」


 よくわからないのにここまで高笑いできる生徒会長は相変わらず壮大だ。


 ブレザーを脱ぎ捨てて、ブラウス一枚になった千鶴の色気は倍増し、開襟かいきんシャツの大きく開いた胸元と、薄い生地越しに真紅の下着がくっきりと透けている。

 そしてそれに負けないほどの緋色ひいろの髪は後頭部で一本に括られ、大きな小豆色あずきいろ三白眼さんぱくがんが凛々しく見開かれている。棒付のキャンディが咥えられた口元がニイっと笑うと、白い歯が輝いて威厳いげんたっぷりなのだが、今日も便所サンダルで不思議な着崩しとなっていた。


「それより優馬、今日も抱きしめてほしそうな顔をしているな!」

「いや、してません。俺が日頃から抱きしめてほしそうな顔してるみたいに言わないでくれませんか!」

「いいぞ、いいぞ! ほら!」

「なにがいいぞ、だ! あんた人の話聞いてんの――痛っ!」


 優馬は衝撃に顔を歪める。しかし抱きしめられたのではない。引っ張られたのだ。麗奈に、耳を。


「デレッデレしおって、この腐れエロ武者が!」

「だからってなんで有巣に耳を引っ張られなきゃいけないんだ」

「ほざけ! 姉さまの身体を下心満載まんさいの視線で舐めつくしていたではないか!」

「やめろ、卑猥ひわいに聞こえる言い方をするんじゃない!」


 優馬の必死の説得もむなしく、麗奈はでダコのように頬を染めながら優馬に詰め寄る。


 その様子を凛は安堵あんどとどこか複雑な気持ちで見つめ、千鶴はそんな三人を悟ったように上機嫌に笑う。いつまでも麗奈の不条理ふじょうり罵倒ばとうの相手はまっぴらな優馬は千鶴に話題転嫁わだいてんかすることにした。


「そういえば千鶴さん、今日は生徒会の仕事が忙しかったんじゃないんですか?」

「ああ、そうなのだが、おまえたちに教えてやりたいことがあってな。とにかく表へ出ろ」


 千鶴に促されるように外に出る。

 そして三人が中庭の芝に足を付けると、千鶴は大きく空に向かって指を差し、優馬はその光景にぽかんと口を開けた。


「どうだ? ちょうど生徒会室から見えてな。おまえ達とも一緒に見ようと思ったんだ」


 千鶴が得意げな笑顔を向けるその真上。そこには大きな虹がかかっていた。

 淡い彩色をかすめたあかねが濡れた世界をより鮮やかに染め、そのきらめきに目を細める。


 じっとりとした風も、熱を帯びてきた外気も、全く気にならないほど澄んだ六月の夕暮れ。

 空をかける七色の橋に心奪われたのは忘れもしない高校生活初めての梅雨明け。


「綺麗だなあ……やっぱり飛んでいって、あの虹掴んでみたいよね」

「今なら貴様の言うことをわかってやらんでもない……かな。理不尽だが」

「素直じゃないなぁ、あーちゃん」

「レナはいつも素直じゃないからな」

「なッ!? 姉さままでっ! 凛の肩を持つなんて理不尽です!」


 とか言いながら麗奈は優馬に視線を合わせると口をすぼめてどことなく笑う。そんな麗奈に優馬も悪戯いたずらな笑顔を向けるのだった。


 世界を彩る全てが讃歌さんかを奏でるみたいに輝き、どことなく背中を押すように心に波を立てる。なんだか良いことがありそうな気がして、季節に祝福されているような気がして、優馬は大きく深呼吸をする。


 雨上がりの草木の匂いが鼻孔びこうをくすぐり、滴が光を反射させた世界は万華鏡のようにカラリと映える。


 そういえばこんな清々しい気持ちでこの季節を迎えるのはいつぶりだろう、と優馬は高鳴る鼓動に耳を澄ませた。


 隣には麗奈と凛、そして千鶴の笑顔。今年はきっと何か違うことが起きようとしているのだろう、そんな気がして目を閉じる。


 まだ蝉も鳴いていないし、風鈴の音色が響くわけでもない。

 しかし、どこかで、夏の始まる音がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る