貧乏優男と鬼畜嬢ッ!

鹿毛野ハレ

第Ⅰ部 ~始まる春。ユ涙姫と卒業式~

第1話-プロローグ。「それぞれの春」

「ジャガイモにしようか。それともネギ……か」


 武者小路むしゃのこうじゆうは冷水で顔をこすりながら、味噌汁の具材を考えていた。


 古ぼけた洗面所の鏡に寝ぼけ顔の自分が映る。百六十センチ後半の平均より少し高めな背に切れ長の眼。波のようでそれなりに様になっている癖っ毛。


「歳をとるごとに親父に似てきている気がする」


 優馬は顔を拭きふき、思ったままを声にした。


「歳をとるごとって、ゆうちゃんは大袈裟に言うほど歳を重ねてないですよ」

「まあなー。ん? ゆいか、おはよう。……というか早くないか」


 鏡越しに映るパジャマ姿の妹に優馬は驚いた。時刻はまだ朝の五時半である。

 唯は猫のようにむにゃむにゃと欠伸をすると、傾いた眼鏡を整え、責め立てるような目を兄に向ける。


「入学式の日くらい、ゆいがお弁当と朝御飯あさごはん作りますから。というか、昨日そう言ったじゃないですか。楽しみで早く目覚めちゃいました? 可愛いですね」

「小学生の遠足じゃあるまいし……、習慣で起きちゃっただけだ。一緒に作ろうか」

「結構です。暇ならパパさんの前で友達作りのイメトレでもしていてください」


 唯は優馬が首にかけていたタオルを引き抜くと洗面台に立つ。隣に並ぶ妹はちょうど自分の肩ほどの身の丈で、これまたちょうど掴みたくなる寸法の頭をしている。


 だから優馬はいつも通り、その小可愛い頭を鷲掴わしづかんだ。


「おい、別にイメトレしなくたって友達くらいできる。お兄ちゃんを見くびるなよ」

「確かにそうですね。じゃあ今日の意気込みでも聞かせてあげればいいんじゃないですか? あと高校生活での抱負ほうふとか」

「抱負ねえ……、まあやってみる」


 言って優馬は頭から手を離すと、仏壇ぶつだんのある居間に移り、目的地で腰を落とす。

 武者小路家代々の御先祖が仏頂面ぶっちょうづらで並ぶ中、一枚だけやたら画質の良いカラー写真に目を向けると、言われた通りに抱負とやらを考え始める。

 写真の主は武者小路むしゃのこうじ優作ゆうさく。今は亡き父親。



「おはよー! 私の名前は姫野ひめのりんです! リンって呼んでくれると嬉しいなぁ!」


 静まる自室。立鏡に映るのは、短めにまくり折ったスカートの際どいショットな自分。

 姫野凛ひめのりんはイメージトレーニングをしていた。今日から通う高校のしわひとつない制服をなびかせて。ステップを踏みワンターン、からのスマイル。


「百二十点! よし、いけるっ!」


 小一時間かけて巻き上げた肩まで伸びる栗色の髪に、オレンジ色をしたお気に入りのカチューシャ。ぱっちりと開いた二重瞼ふたえまぶた。そしてこの春習得したナチュラルメイク。


「大丈夫。絶対楽しくなるっ!」


 新調したスクールバックを肩にかけ、玄関に小走りすると心配そうに見つめる母がいた。

 その瞳に凛の心は晴れ晴れしくも儚い、やり場の無い感情がこみ上げる。


「ママ……。行ってくるね」

「凛、あなた本当に大丈夫? お母さんは、お母さんはっ……!!」

「えっ、ち、ちょっ、泣かないでよっ! もらい泣きでメイク崩れちゃうじゃんかぁ……」

「で、でも、嬉しぐて。あなた本当によく頑張ったわ。今のあなた素敵よ」

「そんなこと言われたら……うぅ……」


 凛は涙をこらえるのに必死だった。口は歪み、頬は引きつる。


「ママ。本当にいろいろ心配かけさせてごめんね。でももう大丈夫だよ」


 そして自称百二十点の笑みで断言した。


「あたし、いっぱい学校楽しむからっ! だから……、ありがとう! 行ってきますっ!」


 それ以上目を合わせると、言葉を発すると、涙が溢れてしまいそうで。切なくて、嬉しくて、もうどうにもできなくて。でもせっかく作ったメイクを崩すわけにはいかないし。

 凛は逃げるように玄関を飛び出した。



「――をここに誓います。新入生代表、有巣ありす。……ふぅ、こんなものだろうか」


 有巣麗奈は数時間後にひかえた答辞とうじの確認をしていた。


「やっぱりもう一度やっておくか」


 一つ息を吐き、鏡の前に立つ。


 非の打ちどころのないほど凛と伸びた背筋。漆塗りのようなつやのある黒髪を右肩あたりで一本に結んだリボン。大きく力のある瞳と整った鼻筋。


 いっさいくもりない鏡の中の自分が再び呼吸を整えたとき、鏡越しに後ろの棚にかざられた写真立てが目に入った。


 幼き日の自分を抱く、その人。

 そして、その人の全てを奪ってしまった自分の罪。

 さらには今日出会うかもしれない、その人の最愛の忘れ形見がたみ

 一度に大量の感情が溢れてきて、麗奈は目を閉じた。


「理不尽だ……」


 口癖のようにそう言い放って、うっすらとまぶたを持ち上げる。

 今にも泣き出しそうな姿が、自分の表面にしかない強さを嘲笑ちょうしょうするかのように痛ましく思えた。


 くしゃっ、と原稿を握りつぶして床にほうると、両手で頬を叩く。

 それはこれから起こる贖罪しょくざいと、確かな決意のあらわれなのかもしれない。


 切り替えねば。そう無理に作った笑顔で写真の中に語りかける。


「そういえば。あなたもよく言っていましたね。世の中は理不尽――」



 世の中は理不尽だ。

 正しい事をしても間違っていると責められることもあるし、間違っていても正しいと認められることもある。いっさいの悪がなくとも、他人と違うからという理由だけで悪になることだってある。


 そして、理不尽に対抗するには膨大な勇気と努力が必要だ。

 大勢を相手に戦わなければならないこともあるし、自分が傷付くことを承知の上で戦う時もある。正しいことを正しいと言うのは簡単だけれど、それを他人に認めさせるためには相応の根性とリスクがいるんだ。


 しかし、それを諦めてはいけないと思う。

 だから、もし優馬がそんな大きな壁に阻まれた時の秘訣ひけつを教えよう。


 考えることを止めるな。クリエイティブCreativeであれ。

 その結果を行動に移すことを躊躇ためらうな。アクションActionを起こせ。

 そして、自分を信じて最後までやり通せ。ネバーギブアップNever give upだ。

 そうすれば、きっとそれはできる。絶対に可能・・だ。


 これは教訓ってやつだ。忘れるんじゃないぞ。きっと優馬の将来を明るく照らす言葉になるって、俺は信じてる。

 それにな。世界ってのは理不尽だからこそ――


「――うちゃん、ゆうちゃん! いい加減起きてください!」


 薄らと開けた視界にはエプロンを纏った妹の眼鏡越しのくりくりとした瞳。


「ん、あぁ……いつのまに」

「まったく、全然起きないんですから! ゆいは抱負を話せばと言ったのであって、寝ろとは言っていません!」

「ごめんごめん、それで……今何時?」


 唯はあごに手を添えると神妙しんみょうな面持ちで口を開く。


「なんと、九時半です」

「えっ、まじで!? やばっ!」


 優馬はね起きた。入学式は九時から始まっているのだ。


「ぷっ! なんちゃって、まだ七時十分前です」

「おい、びびったじゃねえか」

「ふふふ。高校生初ドッキリですね!」

「そんな高校生初はいらん」

「いい記念ですよ。あと寝言ぼやいてましたけど、夢でも見てたんですか?」

「ん? ああ、確か親父の夢だった気が……」


 言うと唯は興味あり気に眼鏡をかけ直す。


「ほほう。高校入学祝いの言葉はありました?」

「それがよく覚えてない。昔、親父としたような話だった気がするんだけど……。でも夢ってそんなもんだろ」

「そうですか、まあいいです。朝ごはん冷めないうちに食べてくださいね」


 優馬はサンキュー、と付け加えると、重たいまぶたを擦りながら正面の遺影を見つめて手を合わせる。


「親父ごめん、抱負は今度ゆっくり考えるよ」


 高校生初の朝日は燦々らんらんと眩しく、古ぼけた畳張りの部屋を包んでいた。

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