第47話-姫野と無意識が照らす小さな灯

「優馬くん、待って!」


 部室に残る有巣と千鶴さんに別れを告げ、校門まで歩くと姫野が後ろから駆けてくる。


「あたし駅までだけど、一緒に帰ろうよ!」


 俺は姫野が追いつくのを待って、わかったとうなずいた。

 人影のない急坂は夕時の肌寒い風を下から巻き上げ、すぐ横で姫野の髪をなびかせている。


「あのさ……。ありがとね」


 だいだいがかった髪を抑えながら姫野は囁く。


「優馬くんと有巣さんには感謝してもしきれないよ」

「まあ……どういたしまして。でも俺たちなにもしてないんだよな」

「ううん。ちづ姉から聞いたよ。あたしのためにいっぱい考えてくれてたって」

「でも、なにも思いつかなくてさ。結局姫野を連れてきてくれたのも千鶴さんだし、ぜんぜん役に立ってないというか――」


 俺は頬をいた。なにせ、そんな感謝されるようなことはできていない。

 しかし、姫野は俺を優しく見つめて「そんなことないよ」と首を横にふった。


「それに有巣さんもわざわざ薬まで買ってくれて……悪いことしちゃった」


 確かに、と俺は苦笑う。仮病だったと知った後の有巣は怒り爆発で半べそだった。


「有巣も正直すぎるところがあるから、風邪って聞いて真に受けちまったみたいだしな」

「そうだね。有巣さんって、ちょっと口は悪いけど本当に正直で、凛々しくて……かっこいいなぁ。しかも可愛いし……反則だよ」


 姫野はため息交じりに微笑むと、どこか遠い目で空をあおぐ。

 なにか見えないものを探しているような横顔を夕暮れが優しく照らしていた。


「あたしね。独りぼっちで引きこもってた時にずっと考えてたんだ。なんでこの世界ってこんなに腐ってるんだろう。なんでこんな理不尽な世の中に産まれ落ちちゃったんだろう……って。そこまで自暴自棄じぼうじきになってた」


 姫野はスクールバッグを肩にかけ直すと後ろで手を組む。


「それで結局、世界は変わりそうにないから自分を変えたんだけど。ある日、本当に腐ってるのは自分だって気付いたの。こんな世界でも有巣さんみたいに自分の信念を貫いて輝いてる人がいる。じゃあ間違ってるのはやっぱりあたしなんだって思ったんだよね。でもあたしは元に戻ることはできない。だからせめて正しいと思える人達と一緒にいれば、あたし自身も正しい人間でいられるって思った。それが優馬くんと有巣さんだったの」


 姫野はどこか羨望せんぼうと寂しさをにじませたような顔を向ける。


「いつだってまっすぐな有巣さんと、優しい優馬くん。そんな二人といればあたしも……って。でもそんなの違うんだよね。自分自身が正しくあろうとしなかったってのは、その時点で大きな間違いだったんだ」


 もしかしたら姫野はそれで有巣にしつこく付きまとっていたのかもしれない。自分の姿を有巣に重ねて、過去の自分を守ろうとしていたのかもしれない。


「そう考えたらあたしが本当に最低だってことにも気が付いた。だって自分が正しくありたいってだけで二人に友情を迫ったんだよ。いつもつくった笑顔でだましてた」

「でも全部作り笑いだったわけじゃないだろ」

「それはもちろんそうだけどさ。下心したごころがあったってことは自分でも許せないよ」


 姫野はみじめに吐息をこぼす。そしてわざとらしく人差し指を立てると、俺を覗きこんだ。


「さて、ここで問題です。あたしはこれからどうしていけばいいでしょうか。ほとんど見失いかけている昔の正しかった自分に戻るべきでしょうか? それとも全てを割り切って新しく作られた姫野凛で生きていくべきでしょうか?」


 姫野の瞳は答えを求めているようで、しかし、暗がりに閉じ込められた子どものようにすすけた色をしている。


「ちづ姉はありのままでいいって言ってくれたけど、もうありのままの自分すら、よくわからないんだよね。自分が今わかってる姫野凛って人間はその二択しかない。しかも両方嫌い……これが人格破綻っていうのかな」


 たぶんもう自分で答えを出せないのだ。なにが正しいのか、なにが本当の自分なのか、姫野にはわからない。失ったものはきっと多かったのだろうけど、一番失うべきではないものを姫野は失っていた。


 だが俺だってそれはわからない。

 無責任ではあるけれど、俺は有巣のように思ったことをそのまま言葉にすることにした。


「嫌いとか、間違いとか、昔とか新しいとか、戻るとか割り切るとか、実際どうだっていいんじゃないか?」

「え……、どういうこと?」


 どうだっていい、とはあまりにも無頓着むとんちゃくに聞こえたかもしれない。

 姫野がきょとんとして立ち止まり、俺も合わせて足を止めた。


「あー、悪い。本当にどうでもいいってわけじゃないんだ。なんて説明すればいいかわからないんだけど……ちょっと話が逸れてもいいか?」


 姫野は不思議そうにこくりと肯く。


「これは俺の話なんだけど、本当は俺、人に親切とか優しくするとか大嫌いなんだ。どれくらい嫌かというと、大っっっっ嫌いってくらい。人に親切しても自分が損をするだけって思ってる」

「優男としては衝撃的な発言だね……」


 姫野はこれまた目をパチクリさせている。


「だってそのせいで親父は死んで、俺の人生はめちゃくちゃだからな」

「ああ……そうだったね。ごめん、無神経なこと言っちゃった」

「いや、気にしてないから大丈夫」


 しゅんとする姫野をなだめて話を続ける。


「でも、なんでか困ってる人を見ると放っておけないんだよ。急に親父のことを思い出して身体が先に動いちゃうんだ。そんでもって後から無駄なことしたなって後悔するし、親父と同じてつを踏む気かよって自分が憎たらしくなる時だってある」


 自分じゃどうにもできない、だから呪いなんだ。


「けど――」


 俺は言葉にするのも、こうしてちゃんと向き合うのも初めてかもしれない。それが少し嬉しくもあるし、こっ恥ずかしくもあった。

 俺はひとつ咳払いをして、じっと見つめる姫野に、姫野の瞳に映る俺に語りかける。


「たまにこれでいいんだって思うことがある。やっぱり感謝されるのは悪い気がしないし、それで親父のことが全部チャラになるなんてことはないけど、そういう自分も悪くないかなって……。まあ無理矢理に納得してるのかもだけどさ」


 最後は少しにごした。まだ認めきれない自分が姫野の瞳に映った気がしたのだ。


「人に親切にすることは良いことだと思うよ。けど、それを否定してる自分もありなんじゃないかって思ってる。それは俺がたった十五年の人生でわかったことの一つとして、ちゃんと受け入れてるんだ。一方で人に優しくできる自分も嫌じゃない。つまりは……、だから……」


 頭を掻く。結局俺はなにを言いたかったのだろう。すっかり自分に対して話をしている気分になっていた。


 姫野が隣でくすりと笑う。お互いに話の終着点がわかっていないのだけど、俺が必死になにかを伝えたいことはわかってくれたらしい。だから最後は少し投げやりにこう言った。


「――姫野もそうなればいいんじゃないかなって思う」

「そうなれば……?」

「うん。なんというか……。両方の姫野凛を認めて、受け入れて、共存させれば一番いいなって俺は思う。ほら、だって昔の姫野は純粋に正しくて、今の姫野はみんなに愛されてる。それにどっちの姫野も頑張ってきたんだ。なら、どっちかを消すなんてあまりにも可哀想だろ。そうすればいつか、そんな自分を両方好きになれる日が来るんじゃないかって思うんだ。だから嫌いだから捨てるとか、そんなことは今は考えなくてもいいだろ?」


 どちらかを切り捨てる必要なんてない。だってどちらかを捨てたら、その分の姫野の努力が否定されてしまう。なら二つとも、いや、全部大切にとっておけばいいじゃないか。


 有巣も『全部、姫野凛だ』と言った。そして、そんな姫野のことが好きだとも言った。

 俺もそうだ。最初は不思議なやつだとしか思ってなかったけど今は知っている。ユ涙姫も空気姫も今目の前で悩んでいる姫野も全部、一人の大切な友人だ。だからこれは間違いない。確信の持てることははっきりと言える。


「それに俺も両方の姫野が好きだ。だから、きっといつか姫野自身も好きになれるよ」

「えっ…………!?」


 姫野は目を見開いて固まった。

 見下ろす町からは一迅の風が駆けあがり、姫野の無防備な髪をばたばたとはためかせる。

 それから目を背けるように姫野は顔をせた。赤みを帯びた頬にしっとりと髪が下りる。


「ちゃんと説明になったかな……?」


 俺は全く反応を見せなくなった姫野に不安を感じて問いかけた。

 すると姫野は一度小さくこくりと肯き、ゆっくりと俺の前へ歩み寄る。

 そして、本当に目の前、わずかに一歩も無いくらいの距離で姫野は止まった。


「まただ。また優馬くんがあたしを見つけてくれた……」


 姫野は顔をあげないまま呟く。ちょうど見下ろした胸あたりで声を出す姫野はまるで妹のようで、とても放ってはおけない哀愁をにじませている。


 普段妹の頭をよく撫でているせいか。それとも姫野がこんなにうれいを帯びているせいか。俺の右手は姫野の頭を目指して軽く浮いた。


 だが、突然その右手は姫野の左手に掴まれ、そこで俺も我に返る。


「ど、どうした!?」


 姫野は俺の右手を強く握りしめると顔をそのままに尋ねてくる。


「優馬くん。あたし達が初めて出会った時のこと……覚えてる?」

「ん? ああ。新入生オリエンテーションの時だよな。それがどうかしたのか」


 さすがに忘れはしない。俺はその日から優男・・になったのだから。

 俺と姫野の初めての出会いは入学式後の新入生同士の交流行事。


「あの時、あたしすっごく嬉しかったの。それまで空気だったあたしを初めて優馬くんが見つけてくれたから。そして辛くて苦しいあの場所から、あたしを連れ出してくれたから」

「あの場所……?」


 ぼんやりと思い返す。俺が初めて姫野に会った時、姫野は新入生で溢れる広い体育館の隅っこで今と同じようにうつむいていた。俺がそいつを見つけられたのはきっと髪色が明るかっただけじゃない。ただ視界に入ったそいつをなぜか放っておけない気がしたからだ。


「そう。孤独っていう空間。そこにいるのに誰からも気付かれない、本当に消えてなくなっちゃうって思うくらい冷たい場所。自覚はないかもしれないけど、優馬くんはそこからあたしを連れ出してくれたんだよ。空気だったあたしを見つけてくれた。そして今も道筋を照らしてくれてる。しっかりあたしを見ていてくれる――」


 言いながら、姫野の右手は左手と同じく俺の手を取る。小さな両手に包まれて、わずかに強張こわばった俺の右手はそのままオレンジ色のパーカーへ。

 正確には心臓を守ように膨らんだ女の子の、いや、姫野の胸元へ運ばれた。


 力んだ拳と対象に温かくて柔らかい膨らみは弱く振動する。とくとくとく、と。

 姫野の鼓動が俺の手から腕へ、腕から胸へ、そして脳へ伝わってくる。

 頭が少し痺れて、瞬きをする。自分のだらしなく力の抜けた右手が今触れているものが視界に入って俺は正気に戻った。


「ちょっ! おぃ、姫野!?」


 無理矢理引きはがそうとする俺の右手を微力ながらも力強くけん制して、姫野は静かに、真剣な眼差しを俺に向けた。


「ねえ、優馬くん。あたしの心臓は動いてる?」


 そんなの当たり前だろと叫びたくなったが、その神妙な瞳の強さに抵抗をやめた。動揺する自分の心を必死に抑えながら、姫野のそれに神経を集中する。


 だがその必要はなかった。姫野の心臓はまるで衝撃波を送るように、ゆっくりだが確実に息をしている。


「ああ。動いてるよ」


 俺はうなずいた。


「あたしは空気じゃないよね?」

「もちろんだ」

「ここに生きてるよね?」

「ちゃんと生きてる」


 それを聞くと姫野は一度目を閉じて和やかに、


「それならきっと大丈夫」


 とまぶたを持ち上げた。瞳には内側から灯がともったような温かさがあり、思わず俺の意識はその瞳に全て持っていかれる。


「やっぱり、ちょっと不安だったの。仮にすべてが上手くいったとしても、まだ自分が何者なのか。どうしたらいいか、そこらへんの決心というか、確信が無かった。けど優馬くんの話聞いて、なんか納得しちゃった。そっか……両方でいいんだよね。全部あたしなんだよね。もっと簡単に考えてよかったんだよね」


 俺はぼーっとする頭で何度も肯く。その度に姫野は柔らかく笑みを溢した。


「あたし頑張る。だから、見ててね。もし、またあたしが消えそうになったら、こうやって見つけ出してね」

「ん……あ、ああ。もちろんだよ。どうなっても、どんな姫野でも、見えなくなっても、俺と有巣で必ず探し出して受け止めてやる。だから安心しろ。――それで……あ、あのさ……そろそろいいかな?」

「えっ? どうしたの?」


 俺が目を逸らして気まずさを顕わにすると姫野は安心していた顔をすぐ不安に曇らせる。


「俺の右手……いつまでこうしてればいい……?」

「優馬くんの……右手? ッッ!?」

「もしかして、無意識だったのか……?」


 姫野は真下を向き一瞬固まったかと思うときょろきょろと周りに視線を泳がせ、俺に向き直る。あわあわと口を歪め、顔は見たことないくらい真っ赤に湯気を出している。手を伝う優しい鼓動は一転、水圧ポンプのようにばっかんばっかん飛び跳ね始めた。


 だって、そりゃあ今は道のど真ん中で、俺の右手は姫野の左胸をしっかり押さえていて――だめだ。これ以上考えたら俺までどうにかなりそうだ。


 姫野は慌てて俺の手を突っ放すと、身をよじって両肩を抱くように胸元を隠す。そして半泣きで、純粋な瞳がかえってなまめかしく見える上目遣いで、


「変態。エッチ。……もうお嫁にいけない」


 悪態をついた。


「おい、やめろ! 姫野が触らせたんだろっ!」

「だけど、だって、男の人にこんな触られたの初めてで……ごめん。けど、こういう時ってビンタ一発くらいした方がいいよね?」

「なんでだっ!? そりゃ俺だって初めてだよ、こんなに柔らかいのかって思ったけ……なんでもない。ごめん。やっぱり一発叩いてくれ」

「じゃ、じゃあ……歯を喰いしばって」


 夕暮れの空に頬が弾ける音が響き渡る。


 いったい俺はなにをしているんだろう。これこそ間違っているんじゃいか、なんて理不尽な世の中だよ。首がひねられ、九十度に視界が移動した世界で俺は深くため息をついた。


 そしてなぜかビンタをした側である姫野に謝られ、「やっぱり先に帰るっ!」と朱に染まった顔を隠すように逃げ去っていく幼げな後ろ姿を遠い目で見送った。

 これが青春とやらだろうか。左頬にはじんじんとした小さい痛みと右手には柔らかい感触。見上げるとこんが入り込んで悠久ゆうきゅう彼方かなたみたいな顔をした空。


 しばらく呆然と立ち尽くすと携帯が震えた。けた面で電源を入れる。


『最後に言いそびれちゃった。本当に、本当に、嬉しかったよ。ありがとう』


 これなら……いいかな。悪い気はしない。

 俺は鮮明に残る姫野の鼓動を払拭できないまま、再びこの坂を下り始めた。

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