5−2

「お――僕があなた方の力になるとは思えないな」

「いえ。あなたの力が有用だということは既に判断済みです。総合的に、色々と調べさせていただきました。あなたは全脳摘出者ですね?」

「そう、〈脳なし〉ですよ」全脳摘出者。その言葉を聞くと、胸の中で何かが萎えた。やれやれまたか、と溜息が出た。今までの人生、この言葉によって何度も振り回されてきた。大半は、碌でもない思いをしただけだった。「もしかして、資料を読み込んで犯人を言い当てるとか、そうした演算を期待してるのかな?」

「そんなことはうちのAIにもできます。というより、人間の不安定な思考よりAIのアルゴリズムの方が精確です。単なる推理だけなら、わざわざ訪ねてきたりはしません」

「ならなぜ?」いささか傷つきながら、おれは訊ねた。

「夢野さんの摘出された脳をアテにしているのは事実です。そこで今なにが起こっているのかを、わたしたちは知りたいのです」

「特に何も起きていないけど」

「本当に?」ズイと彼女は身を乗り出してきた。

 真っ直ぐな瞳で見つめられると、頭の奥まで覗き込まれているような気がした。おれは堪えきれず、身を逸らした。

「何か心当たりはありませんか?」彼女は元の位置に戻った。「最近、変わったことがあったとか」

「警察に捕まりました。そちらの記録にも残っているでしょうが」

「ええ、その件については確認済みです。お知り合いの家にいたところを誤認逮捕されたとか」

「あなたはあの件とは無関係なんですか?」

「関係があると考える理由があるのですか?」

 おれは小さく唇を噛んだ。落ち着け。彼女が握っているのは、あくまで警察内部での記録でしかない。おれの脳内で何が起きているかを知っているわけではない。ジェット・コースケの一件だって、おれが彼の部屋へ行った本当の理由は知られていない。知られるはずがない。

「わかりました」不意に彼女が言った。「白状しましょう。わたしが今日ここへ来たのは、やはり先日の一件とは無関係ではありません」

 おれは黙って続きを待った。相手の意図が見えない以上、下手に動くのは命取りだ。

「わたしたちは以前から捜査に適した全脳摘出者を探していました。といって、捜査内容の性質上、摘出者であれば誰でもいいということでもありません。守秘義務を課し、確実にこれを守らせられる人物を求めていました。そこにあなたが現れたというわけです」

「おれなら必ず秘密を守る、と?」

「というより、守らざるを得ないはずです」

 なにか、背中に冷たいものを流し込まれたような気がした。気のせいだと信じたかったが、動悸はどんどん速まってきた。彼女は言った。

「一つお訊ねしたいのですが、ジェット・コースケ氏とはどういうご関係ですか?」

「この間も話した通り、昔連載していた雑誌の新年会パーティで知り合って以来の仲ですよ」おれは冷静を装いつつ、脳の稼働率を上げた。

「随分と歳の差があったようですが」

「歳なんか関係ありませんよ、こういう仕事をしていると。どんなに歳が離れていても、根っこの部分で通ずるものがあれば仲良くなれるものです」

「お二人の間を結んでいたのは友情ですか」

「そうです」

「他に特別な感情はなかった」

「あるわけないでしょう」

「そうですか」彼女は考え込んだ。「わたしには、そういう場合に別の感情も生まれ得ると思えるのですが」

「個人の趣味趣向が細分化・多様化した現代では、価値観の世代差なんてものはほとんど無意味ですよ。誤差みたいなものです」

「夢野さんはあくまで、その関係を友情だとおっしゃるのですね?」

 おれは薄く張った氷を歩くような気持ちで頷いた。

「それは、ジェット・コースケ氏の方でも同じだったのでしょうか?」

「そのはずです。というか、あなたが何を疑っているのかわからないな。もし仮に我々が同性愛とかそういう関係だったとして、それが何か問題になりますか? 今時、同性婚も珍しくないこの時代に――」言っているうちに、別の考えが頭をもたげてきた。何か得体の知れない怪物を真っ黒な沼から呼び出してしまったような、しくじりの手応えがあった。しかも事態は着実に悪い方へと進行し、取り返しかつかなくなっている。

 おれは向かいに座る訪問者を見た。彼女は特に勝ち誇った様子もなく、背筋を伸ばしたままこちらを見返してきた。

「この時代に、何ですか?」

 喉が閉まり、言葉が出てこなかった。

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