18−4

 尾骶骨の痛みに被さるようにして、呻き声のようなものが耳に入ってきた。見れば、首を後ろに逸らした少女の姿があった。彼女の白い首には、真っ黒な革手袋で包まれた指が食い込んでいた。スキンヘッド男のものだ。手袋に秘密があるのか、仮想人に干渉していた。少女に向かって伸ばされた男の右腕が、角度を上げた。少女のローファーが地面から離れた。

「お父さん……」少女は途切れ途切れの声で言った。「逃げて……」

「ローカルでこんなものを走らせていらっしゃるとは」男が言った。「脳の無駄遣いだ」

 男の指に力が込められた。少女は口を大きく開け、声にならない声で呻いた。口の端からは泡のようなものが溢れていた。掴まれた首はますます奇妙な角度に曲がっていった。抵抗力を失い垂れ下がった手足が、始めは小刻みに、次第に大きく震え出した。彼女の体の至る所でブロックノイズが生じた。輪郭がぼやけ、全身が不鮮明になった。

 おれは尻餅を突いたまま、ノイズに塗れていく少女を見上げていた。耳には彼女の声が蘇っていた。眼の裏には、彼女の笑う顔が浮かんでいた。

 白い首に食い込んでいく黒い指が、改めて目に付いた。おれは奥歯を噛みしめた。

 拳を握った。雄叫びを上げた。地面を蹴って、男の胴体目がけ飛び込んだ。相手は電信柱のように硬く、揺るがなかった。それでもおれは相手に食らいつき、脇腹に拳を何発も入れた。

 程なくして首の後ろを掴まれ、勢いよく引っ張られた。まるで抵抗する間もなく宙を舞い、コンクリートの地面に叩き落とされた。今度は尾骶骨どころではなく、全身を打ち付けた。痛みに悶え海老反りになったところへ、脇腹に新たな衝撃が走った。おれは横様に地面を転がった。

 回転は三回で停まったが、上手く呼吸ができなかった。肺に空気が入っていかない。無理に入れようとすると、肋骨が砕けたような痛みに襲われた。

「なかなか勇敢でいらっしゃいますね、夢野先生。ですが、それは蛮勇というものです。一概に褒められた行為ではありません」

 目の前に焦げ茶色の革靴が並んだ。よく磨かれており、爪先には鈍い光を湛えていた。なかなか几帳面な男なのかもしれないと思っていると、髪を鷲掴みにされ、無理矢理引き起こされた。

「相手が今の私でよかった。私はあなたを生かしたまま連れ帰るよう命じられているのです。殴られた脇腹は痛みますが、会社の命令は絶対ですのでここでは殺しません。どうかご安心を」

 不意に髪の毛が離された。おれは落ちるように、再び地面に倒れた。

 霞む視界に、こちらへ駆けてくる小さな足が見えた。

「両手を頭の後ろへ。少しでも妙な動きをした場合は発砲します」

 黒のパンプスを履いたその足は、おれの目の前で止まった。

「囮捜査とは陰険ですね」スキンヘッドの男の声がした。「一般人が負傷するのを待ってから逮捕だなんて、捜査手法に問題がある」

「待ち伏せていたわけではありません。別の捜査中に、たまたま暴行の現場に遭遇しただけです」

「頭脳警察がこんな所で。ここでは私が誰かも照会できないでしょう」

「この映像は録画しています。後で照会を掛け、に問い合わせる予定です。因みにわたし一人を潰しても状況は変わりません。撮影しているのはわたしだけではありません」

 辺りに目を走らせるような間が空いた。

「たまたま、ですか」男が鼻を鳴らした。「よろしい。この場は手を引きましょう。我々も暇ではありませんので」

 おれはどうにか首を動かし、男がいると思しき方を向いた。コツコツと靴を鳴らしながら、スキンヘッドの男が去って行く後ろ姿が見えた。彼の背中は風景に溶け込んでいった。見えない緞帳を潜り向こう側へ行ってしまったように、一瞬で消えた。

「夢野さん」背の低い女性がすぐ傍に屈み込んでいた。

「息をすると背中が痛い」おれは言った。

「すぐに科野医師の所へお連れします」

 周りでいくつもの足音が近付いて来た。女性の仲間かと思ったが、霞む視界に現れたのは見慣れたここの住人たちだった。みんな口々に、おれの名前を呼んでいた。そこで気が抜けたせいか、おれの意識は途絶えた。

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