18−3
公園にいたのは先日の女性ではなかった。こちらに背を向けて立つその人物は、同じ背広姿ではあったものの、体格も性別も逆だった。おまけに、髪の量も彼女とは反対だった。磨いた球のようなスキンヘッドが、降り注ぐ日射しを反射していた。
このような人物にはやはり心当たりがなかった。やはり過去に関わりのあった人物なのだろうが。近付こうとするおれの前に、セーラー服の少女が割り込んできた。
「待って、先生。この人は駄目」
おれは声が出そうになったのを堪えた。駄目って? そう目で訊ねた。
「とにかく駄目なの。今すぐ逃げて」
彼女はおれを押し返そうと両の掌を向けてきた。当然、それらが触れてもおれには一グラムの力も加わらなかったが、必死さは伝わってきた。しかし、おれの翻意よりも相手の行動の方が早かった。こちらの気配に気付いたらしく、背中を向け立っていた男が振り返った。おれの足は見えない杭でその場に固定された。
「ご無沙汰しております、夢野先生」男は張りのあるバリトンボイスで言って、頭を下げた。再び顔を上げるが、目元は真っ黒なサングラスに覆われ、表情を覗うことはできなかった。この点だけは彼女と同じだとおれは思った。「お元気そうで安心いたしました」
やはり、この男に見覚えはなかった。ただ、体の底から震えが湧いてきた。少女の尋常ではない様子のせいもあるが、おれの体が、意識や記憶とは別のところで何かを覚えているようでもあった。そこには、無考えでも依頼されるままに漫画を描けたことと共通する何かがあった。
「一時は行方知れずと伺い、大変心配しておりました。こうして再びお目にかかれたのは、望外の喜びに存じます」
「折角いらしていただいたのに申し訳ない」おれは相手との距離を保ったまま言った。「おれにはあなたと会った記憶がないのですが」
「左様でございますか。私のことは、何も覚えていらっしゃらない、と?」
「悪いですけど」
「弊社のことも?」
「自分がどういう人間だったかもろくに覚えていないんです。できれば自己紹介をしてもらえませんか」
すると男は、少しのあいだ考え込むような素振りを見せてから口を開いた。
「先生の新作、拝見いたしました。環境の変化を感じさせない、大変素晴らしい作品でした。むしろ、こちらでの暮らしを創作の糧としているようにも見受けられました」
住人たちに描いたエロ漫画のことを言っているのだろうか。だが、作品と言われて思い当たるものはそれしかなかった。
「あの作品を見なければ、先生がこちらにいらっしゃると知ることはできませんでした。しかし、良い作品は必ず世間に広まる。これは自然の摂理といっても過言ではないのかもしれません」
コムさんがネットに上げたものを彼は見たのだ。すると彼の正体は、作品を目に止め、わざわざ下層現実までスカウトしに来た編集者——。いや希望的観測が過ぎると、意識の底から自分の声が囁いた。
「ほとんどの記憶を失っていながら、あれだけの作品を作れるものなのですか」
「腕が自然と動いたんですよ。習慣というのは恐ろしいものです」おれは声が硬くなっているのを自覚した。
「なるほど。頭では何も覚えていないが、体は覚えている、と」
「そんな大層なものではないかもしれないけど……」
「先生!」
少女の声にハッとした。男が跳ぶような足取りで距離を詰めてくるのが見えた。おれは咄嗟に飛び退いた。だが、日頃の運動不足で鈍った体はバランスを崩し、その場に尻餅を突いてしまった。
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