15−4

 新宿通を歩きながら元妻へ電話を掛けてみた。不通音か着信拒否の案内が聞こえてくるかと思ったが、二回のコールの後、電話は繋がった。

『はい』紛れもなく、元妻の声だった。『もしもし?』

「もしもし」おれは自分から掛けておいて、元妻が電話口に出たことが信じきれていなかった。「おれだけど」

『もしもし?』元妻は繰り返した。

「もしもし、おれだ」

『もしもし?』

「もしもし」つい語気が強くなった。

『もしもし? どちら様?』

「だからおれだ」言ってから、彼女がそういう風にしておれからの通話をやり過ごそうとしているのだろうと思い至った。だが、それならおれからの着信があった時点で切ればよかったのだ。或いは間違って通話ボタンを押したのだろうか。

『お電話が遠いようなので切らせてもらいます』

「待て。今日のことは——」

 まるでこちらの声が届いていないというように通話は切られた。おれはすぐにリダイアルした。元妻もすぐに電話を取った。ボタンの押し間違いではないようだった。

『もしもし?』今度は初めから怒気を孕んでいた。

「もしもし。おれの話を聞いてほしい。頭脳警察のことなんだが——」

『いい加減にしてもらえますか?』彼女の声が被さってきた。『そちらの番号は出ているんです。通報しますよ?』

「いや、だから——」おれは途中で言葉を切った。それから、表記するのは憚られる三文字の単語を口にした。元妻はその類いの言葉が嫌いだった。一度目は小さく、二度目はやや大きく。三度目は、周りの通行人も振り返るだろうと思うぐらい、叫ぶように言った。

 電話の向こうからは何の反応も返ってこなかった。やがて短い舌打ちがして、『次掛けてきたら通報しますよ』と元妻は言い、電話を切った。彼女はこちらの言葉に怒ったわけではなさそうだった。むしろ相手が何も言わないことに対して怒っていたようだ。おれの声は彼女に届いていなかった。それは、先ほどから起きている事象と共通していた。

 背中を冷たい汗が伝った。それと同時に腹が鳴った。娘と会う緊張から、朝も昼もろくに食べていなかった。丁度近くにファミリーレストランがあった。

 おれは階段を上がり、二階にある店のガラス扉を開けようとした。だが、扉はロックされ、開けることができなかった。店内には灯りが点き、客や従業員の姿が見えた。おれの後から階段を上がってきたカップルは難なく扉を開け、入店していった。従業員も出迎えに出てきた。ただ誰も、おれがガラス扉の外に立っていることなど気付きもしないようだった。

 ふと、ガラス扉に貼られたステッカーが目に付いた。にこやかに笑う両親と子供を描いたイラストの下に〈安心安全 ネオ東京都MIND認証店〉の文字。一定のMINDを保持していない人間は入店できない証だった。そのステッカーに被さる形で〈現在のMINDでは入店できません〉という仮想表示が浮かんできた。

 もしやと思い、おれは仮想表示を呼び出した。98という数字を探したが、そんなものはどこにもなかった。代わりにあったのは、MIND52という表示だった。

「52……」思わず声に出してしまった。しかも言った矢先、表示は51に変わった。

 すぐに表示を消した。そうすればこの退行は停まる気がした。そう願っていた。怖くてもう一度表示させることはできなかった。おれは虚ろな足取りで階段を降り、再び通りへ出た。新宿方面へ少し行くと、ビルとビルに挟まれた所に小さなラーメン屋があった。入り口には暖簾が掛かり、ガラスの引き戸にはステッカーも貼っていなかった。

 暖簾をくぐり、店に入った。店内は半分ほどが埋まっていた。おれは入り口脇の券売機で食券(チャーシュー麺980円)を買い、カウンターの空いている席に座った。店員の姿はなかったが、厨房に向けて券を置いた。水がセルフサービスであることに気付き、取りに行った。戻っても尚、食券は置かれたままだった。

 身を乗り出し、厨房を覗き込んだ。奥でアルバイトと思しき若者が二人、談笑していた。

「すいません」

 呼び掛けても、彼らは談笑をやめなかった。

「すいませーん」

 声を大きくしても結果は同じだった。

 また背中を、冷たい汗が流れた。おれは自分の身に起きていることを信じたくなくて、割り箸の刺さった鉄の容器を掴んだ。それを厨房の壁に投げつけた。ガン、とそこそこ大きな音が響いた。BGMや換気扇の音をも凌ぐ大きさだった。

 店内の注目を集めることには成功した。だが、彼らの視線は、厨房の床に転がる鉄の容器に注がれていた。

 店員がやって来て、散乱した割り箸を集め始めた。彼らは頻りに首を傾げていた。カウンターを挟んで立つおれに目を向けることはなかった。

 おれの前に代わりの容器を置いた時、店員はようやく食券に気が付いた。だが、それがおれの注文であるとは認識しなかった。それは前の客が置いたもので、回収し忘れたのだということで処理された。おれは壁にもたれるようにして出口へ向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る