15−3
彼女の言う〈彼〉が誰を指すのか、すぐにはわからなかった。
「ここへ来た時までは確かにいたんだが」と、後ろを歩いていた捜査官が心許ない調子で言った。
「逃げられるはずがありません。一本道ですよ」
「確かにそうなんだが……」
「というか濃川」と、前を歩いていた捜査官がおずおずと会話に入った。「俺たち、何でこんな所にいるんだ?」
「何でって——」しかし、濃川捜査官の言葉は途切れた。彼女は言葉を発する代わりに、自身のこめかみに指を充てた。視線は床を這っていた。そこに落ちている言葉でも探すような顔だった。
おれには三人がコントでも始めたように見えた。だが、この瞬間にそんなことをやる必要はどこにもなかった。少し考えれば、もっと妥当な答えが見つかった。
始めはそれが正しい答えなのか自信がなかった。だが、試しに三人それぞれの目の前に立ったり、手を振ったり、肩を小突いたりして確信が持てた。彼女たちの目にはおれが映っていなかった。より正確に言うなら、彼女たちはおれを認識できていなかった。
「たしか、誰かいたような……」
「そうか? 飯食いに行く途中だった気がするぞ」
「監視カメラ」と、男二人の間から濃川捜査官が部屋の奥に向けて叫んだ。「映像を回して下さい。今すぐに」
奥にいた解析室の人員が、弾かれたように手配を始めた。解析用のモニターの一つに、廊下や部屋の前を撮影した録画映像が映し出された。濃川捜査官は飛びつくようにそちらへ向かった。二人の捜査官とおれも、後からついていった。
映像は画面の右上から左下へ掛けて、斜めのアングルから撮影されていた。やや不鮮明ではあるが、それでも歩いている人影の数は判別できた。四人だ。
「俺たちだけだな」後ろを歩いていた捜査官が呟いた。
おれは彼の顔を見つめてしまった。その横顔は、とても冗談を言っているようではなかった。
「別のカメラを」
濃川捜査官に急かされて、解析官がコンソールを操った。その手つきをもどかしく感じたのか、濃川捜査官は「失礼します」と短く言って操作を変わった。彼女は映像の早送りと巻き戻し、画角の切り替えを画面を見上げたままおこなった。何度も映像を再生し、それを凝視した。だが、画面に彼女が探すものは映っていなかった。
「やっぱり俺たちだけだな」
「だから飯食いに行く途中だったんだって」
「ここに来た時から、あなたたちだけでしたよ」と、解析官も言った。「先日の解析データを取りに来たんですよね、濃川捜査官?」
それでも信じられないというように、濃川捜査官は画面を見つめ続けていた。
おれは少しずつ後じさった。念のため、息を殺して。後ろ手で扉を開けても、誰もこちらを振り向きはしなかった。おれは扉の隙間に身を滑り込ませ、部屋を出た。最後まで、彼女らがおれに気付くことはなかった。
一本道の廊下を走った。おれの身に、というよりおれの周りで起こりつつある事態が、まだ信じ切れていなかった。既にこの時点で逃亡罪が成立している。正気を取り戻した彼女らが追い掛けてくれば、脳解析など必要なしに牢屋行きだ。
歩いても軽く息切れするほどの長さのある廊下は、中年の体にはなかなか辛いものがあった。だがおれは走った。途中で警報が鳴ることもなかった。廊下が終わり、記憶を頼りに階段を上がり、また別の廊下を走った。いつしか人気の多い場所へ出ていたが、誰もおれを誰何したり、そこにいることを見咎めたりはしなかった。まるでおれのことが見えていないようだった。
ロビーを突っ切り、正面玄関から堂々と庁舎の外へ出た。息が切れていた。膝に手を突き、肩を上下させながら呼吸を整えた。いくらか落ち着いたところで建物を振り返った。非常事態にざわめく気配はなく、誰かが追い掛けて出て来る様子もなかった。泳がせるにしては、あまりに周りに人影がなかった。
頭脳警察の庁舎は旧警視庁の建物を居抜きしていた。すぐ近くに地下鉄の駅があったが、一応警戒して帰りは公共交通機関を使うのを避けることにした。おれはお堀端の通りへ出て、タクシーを捕まえようと手を上げた。だが、どれだけ粘っても車は一台として停まらなかった。おれは諦め、新宿方面へ歩き出した。これ以上動きたくないという思いよりも、早く自分のベッドに入りたいという気持ちの方が勝っていた。
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