15−5
途中で目に付く飲食店の仮想看板は、もはやおれには無関係のものばかりだった。この大都会に在りながら、おれは一滴の水にもありつけずに歩き続けていた。
恐らくこの状態では、自宅の水道を捻るまで何も口にすることはできないだろう——そう思った時、横目が暗い裏路地を捉えた。正確には、そこに並ぶ蓋付きの大きなポリバケツを。
それは入り口に赤提灯のぶら下がる居酒屋と思しき店の脇にあった。中にはゴミが捨ててあるに違いなかった。ゴミとされた、食べ物の残骸が。
おれは足を止め、暗い裏路地を見つめた。いかん、という己の声は、腹の虫に掻き消された。おれは裏路地へ向かって歩き出した。高邁な理性を述べられるほど、おれは空腹への耐性がなかった。おれは飽食の国に生きる文明の豚だった。
周りを見渡している余裕などなかった。誰にも認識されないのだから人目を気にする必要もないという視点も、もちろんなかった。おれはポリバケツの蓋を取った。口の中に溢れた唾液が、唇の端から零れそうだった。饐えたにおいが鼻を突いた。その向こうからは、たしかに食べ物のにおいがした。
まだ食べられるものがある。おれはポリバケツの中へ手を伸ばした。その瞬間、後頭部に衝撃を受けた。視界が揺れ、意識が一瞬飛んだ。気付くとおれは湿った地面に転がっていた。目の前には爪先がワニの口のように裂けた革靴があった。中の靴下まで見え、親指の部分に穴が空き、指先が覗いていた。そのまま視線を上へ向けると、着古した背広があり、更にその上には伸び放題・跳ね放題の髭と髪が見えた。仕事帰りに遭難し、それきり彷徨い続けている会社員とでもいうような風貌だった。
「ウ、ウ、ウワーーーーーッ」男が叫んだ。何か罵るつもりだったらしいが、言葉を見つけることができず、とりあえず威嚇だけしたようだった。彼は地団駄を踏み、ここが自分の縄張りであることを全身で主張した。「ウワッ、ウワッ、ウワーーッ」
おれは上半身を起こし、男が繰り広げる舞を眺めた。恐怖はなかった。それよりも、おれを認識できる人物にようやく会えた喜びの方が大きかった。
おれはまだ生きている。そう実感できた。おれはまだ、ちゃんとこの世にいるのだ。
すぐ傍に、別の人の気配を感じた。見上げると、セーラー服姿の少女が立っていた。
彼女はこちらを見下ろしていた。何か言いたそうだったが、唇を結んだままだった。おれは彼女を知っている気がしたが、誰かを思い出すことはできなかった。そもそも自分が誰かを思い出せなくなっていることに気が付いた。
おれは確かにまだこの世に存在した。だが、その存在に安堵するおれは誰なのだ? どれだけ考えても、思い出すことはできなかった。
おれという人間を形作っている塊が、脆い石灰のように崩れていくような気がした。
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