27−4
黒い綿埃のようなものが瓶に入れられ、蓋が閉められた。「採取が完了しました」と濃川捜査官が言うと、瓶は出てきた時と逆の流れで空中に消えた。
『OK、確認した。三十分で仕上げるよ』空からなのか頭の中からなのかわからないが、科野の声が響いた。
「お前」おれは言った。「ずっと見てたのか?」
『二人のことはずっとモニタリングしてるよ』
「だったら声掛けろよ」
『あまりにセンセイが幸せそうだったから声掛けづらかったんだよ。昏睡状態になるとどうなるかも見てみたかったし』
言い返そうとすると、腕を掴まれた。
「ここを離れましょう」濃川捜査官が言った。彼女はおれたちが来た方を見つめていた。
「どうかしたんですか?」おれは訊ねた。
『そうだね。一カ所に留まっていない方がいい』科野が言った。『〈新世界〉が異物の存在に気付いたようだ』
暗がりの中で白い光が閃いた。かと思うと、何かが飛んできた。おれは濃川捜査官に引っ張られ、それを避けた。目の前を通り過ぎた影は鋭利な形をしていた。形といい大きさといい、おれが知る限り包丁しか思い浮かばなかった。
闇の中から人影が浮かび上がってきた。街灯の光に照らされたその人物は妻、いや、元妻だった。彼女は口を結んだままこちらを見据えていた。その顔に表情と呼べるようなものは浮かんでいなかった。元妻の形をした何か、というのが正しいのかもしれない。或いは、元妻の形をしておれを殺そうとする何か。
彼女が手を挙げると、その場所に新たな包丁が現れた。便利な世界だ、と思っていると、濃川捜査官により強く腕を引っ張られた。
「逃げますよ」
「あ、はい」
おれたちは駆け出した。芝生の上を、公園を、道路を横切りながら団地の中を走り続けた。息が上がることはなかったが、走っているという認識が自動的に疲労を呼び起こした。途中何度か振り返ると、暗がりの中にこちらを追ってくる人影が見えた。元妻が無表情のまま、見たこともない全力疾走で追い掛けてきていた。
「あの、濃川さん」走りながらおれは言った。「死なないんだったら逃げる必要もないんじゃないんですか?」
「たしかに死はありませんが、データも削除される可能性があります。今追い掛けてきているのは、〈新世界〉のセキュリティプログラムです。捕まれば、異物であるわたしたちは消去されるでしょう」
「何か対抗する方法は?」
「戦うことはできますが、ここは夢野さんの理想世界です。わたしが奥様や夢野さんの親しい人を傷付けても構いませんか?」
下層現実でサバクタニの〈社獣〉と格闘していた濃川捜査官の姿を思い出した。彼女であれば、追い掛けてくる元妻もどうにかできそうだ。だが、命のやり取りともなれば、締め上げるだけでは済まないかもしれない。この、一見すると現実と見分けのつかない空間の中でそのような暴力行為が行われた場合、おれは直視できる自信がなかった。
「——すみません」と、おれは言った。
「それが正常な感覚です」濃川捜査官は何でもなさそうに言った。
「でも、あとどれだけ逃げればいいんだろう?」
「こちらの時間は物理時間のおよそ十倍で進んでいますので、五時間ほどです」
「五時間」
「それでも、三十分で抗体プログラムを組み上げるというのは尋常なことではありません。我々も耐えなければ」
何度目かの公園に差し掛かると、前方に誰か立っていた。おれたちは足を止めた。
元妻ではなかった。瞬く水銀灯のぼんやりした光に照らし出されたのは、馬橋巡査の顔だった。彼は格好こそはおれが出逢った頃の警察官のものだったが、その顔は歌舞伎町で自称私立探偵として胡散臭い仕事をしている現在の、使い古した段ボール箱のような顔だった。やはり唇を結んだまま、右腕を水平に伸ばしてこちらへ向けた。手には拳銃が握られていた。
何の前置きもなく引き金が引かれた。乾いた破裂音が耳を突いた。おれは咄嗟に目を瞑り、身を縮めた。痛みも衝撃もなかった。代わりに、隣から呻き声が聞こえた。薄目を開けると、濃川捜査官が左の脇腹を押さえていた。彼女はおれが声を掛ける前に自分も空中から銃を取り出し、馬橋に向けて発砲した。弾丸は彼の拳銃を、握っていた右手の指諸共弾き飛ばした。
濃川捜査官は顔を歪め、その場に膝を突いた。
「すみません、夢野さん」息が切れていた。「これを……」
彼女は銃身の身近い回転銃を差し出してきた。おれはそれを、すぐには受け取ることができなかった。
「やらなければやられます」彼女は言った。撃たれた腹部には赤黒いブロックノイズが瞬いていた。
「ここは本当の世界ではありません。本当の世界を守るために、どうか」
視界の端では、馬橋が無事な方の手を伸ばし空中に拳銃を発生させている姿が見えた。おれは奥歯を噛んだまま、濃川捜査官の手から拳銃を取った。両手で銃把を包み込み、引き金に指を掛けて馬橋に銃口を向けた。
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