30−3

 おれの漫画が紙の本で出版された日は、奇しくも砂漠谷エリが意識不明のまま逮捕された日でもあった。決して狙ったわけではなかった。

 彼女の体はその一週間前に都内のホテルで見つかった。それまで振り込まれていた宿泊代が滞り、不審に思った客室係が部屋を訪ね、ベッドで昏々と眠る砂漠谷エリを発見したのだ。ホテルの記録によると、彼女は昏睡騒ぎが落ち着いた頃からそこに泊まっていたという。誰が宿泊代を払い続けていたのか、また、何故支払いが停まったかは定かではない。時間を置いて彼女を発見させようという誰かの意志を感じなくもないが、真実を確かめる術はない。

 まさか、おれの本の出版に合わせて——などと考えるのは、思い上がり以外の何者でもないだろう。だが、つい考えがそちらの方へ行ってしまう。おれがのことを思い浮かべながら紙の出版をしたのなら、その逆が絶対にないとも言い切れないのではないか、と。

 出版に際し、新宿の書店でサイン会が行われることになっていた。話題作なのでマスコミの取材が何社か来ると、担当の編集者は言っていた。そこへ砂漠谷エリのニュースである。そろそろ準備しようかと思っていたら電話が掛かってきて、「今時本を出しただけではあり得ない数の取材が来ます」と言われた。「可能な限り正装をしてきてください」。

 入念に髭を剃り、鼻毛も切り、クローゼットから何着か候補の服を出して選んでいると、荻原が連載原稿を持って修正箇所を訊きに来た。

「あ、どこ行くんですか。これから追い込みっすよ?」

「サイン会だよ。こないだ言ったろ」

「先生ばっかりチヤホヤされてずるい」

「だっておれの漫画だし」

「みんなで汗水流して描いた漫画ですよ」

「話考えて、絵描いたのはおれ。お前らは手伝いをしただけ」

「あー、そういうこと言うんだ。センセイは目のとこしか描いてないってまたネットで言いふらしてやりますからね」

「お前だったのか、この野郎!」

 荻原の首を締め上げていると、エゼキエルがやって来た。

「先生、オ迎エ、来テル」

「おお、そうか」

 おれはさっさと着替え、玄関へ向かった。「美女たちとの肌の触れ合い!」という荻原の叫びを聞きながら革靴を履き、家を出た。

 タクシーで新宿へ向かうのは、濃川捜査官と科野の元へ行ったあの日以来初めてだった。ほとんど車の走っていなかった甲州街道が渋滞していた。世の中は元に戻りつつあると、嫌でも実感させられた。ガードを潜ると、駅前には砂漠谷三姉妹ではない、別の誰かの巨大ホログラムが映し出されていた。男。見覚えがある猫背の中年。おれだ。

「何あれ」心の底から戦慄しながらおれは言った。

「びっくりしたでしょ」隣に座る編集者が言った。「サプライズで宣伝打っときました。今日一日だけですけど」

 巨大なおれはこちらを見下ろし、笑みを浮かべて手を振り始めた。そういえば雑誌の取材か何かの時に、ついでだからとこんなものを撮られた覚えがあった。こんな用途だとは思いもしなかったが。

「知らないおっさんに見下ろされるとか逆効果なのでは?」

「まあ、電子版が順調に売れてるので大丈夫ですよ」逆効果の可能性を否定しないまま、若い編集者は言った。「これに砂漠谷エリの逮捕がありますから、世間の注目は充分です」

 書店には念のため裏から入った。おれの姿を認めると、店員さんたちは皆、戸惑った様子を見せた。店の前にファンとマスコミが殺到して大騒ぎになっているのかもしれない。そんなことを一瞬考え、すぐに嫌な予感が反対側から押し寄せてきた。おれの嫌な予感はよく当たる。

 会場となる部屋に入ると、目の前には誰もいなかった。これからお客を入れるのかと思いつつ机に着くが、何のアナウンスもなかった。

「まだ、始まらないんですか?」

「いえ」眼鏡を掛けた女性の店員は目を逸らした。

「もう始まってますよ」と、編集者が白い歯を見せながら言った。

「マスコミは?」

「みんな警察署の方に行ってしまったのかもしれませんね。どうしても向こうの方が話題性強いですし」この男、良い大学を出ているらしいが、爽やかに言えば相手が傷つかないとでも思っているようだ。そういうところに荻原とは別方向の、しかし同等のダメさを感じる。

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