30−2
園内を周りながら互いの仮想人や昏睡事件(学校への侵入も含む)のことなどを話しているうちに日が暮れてきた。元妻との待ち合わせの時間が迫っていたので、出口へ向かって歩き出した。
「お父さんの漫画、みんな読んでるよ」
これまでいくつかの話題があった中で、初めて漫画のことに触れられた。彼女なりに気を遣い、避けていたのかもしれない。それを目当てで会ったと思われたくないというのもあっただろう。おれだって、娘が仮にアイドルか何かになったとしたら、その話題には敢えて触れずにおくはずだ。
「そうか、嬉しいな」
「みんな面白いって」
「そうか」
「わたしも読んだよ」
「どうだった?」
「面白かった。すごく」
彼女の話し方には、どこか寝ている猛獣を起こさぬよう足を忍ばせているような感じがあった。おれは訊かれれば印税の額だって教える心の準備をしていた。彼女が意を決して飛び込んでくるのを辛抱強く待っていると、やがて娘は口を開いた。
「その——目の部分しか描いてないって本当?」彼女はこちらが気の毒になるぐらい申し訳なさそうに、しかし訊かないままでは帰れないといった様子で言った。「ネットにそういう噂が書いてあって」
待ち構えていた問いとは熱量も質もあまりに違っていたので、何を訊かれたか理解するまで時間がかかった。質問の意味がようやく染み込んでくると、つい笑いがこぼれた。
「そんなわけないだろ」おれは自分の評判を敢えて調べるようなことはしないから、その噂については初耳だった。馬鹿な噂を流す奴がいたものだ。
「だよね。よかった」心底安心したというように娘は言った。
「ネットの噂を簡単に信じちゃダメだ。顔も名前も隠した奴の言うことに本当のことなんてほとんどないんだから」彼女が中学生であることを急に実感して、父親らしいことを言ってしまった。
「そうだよね。じゃあ、エッチな漫画を描いてたっていう噂も嘘だよね?」
「あ、うん……」急に辺りが暗くなった気がした。このままでは拙いと思い、おれは無理矢理話を変えた。「それより今度、あの漫画を紙の本で出すんだよ」
「図書館にあるような形で?」
「そう。買ったことないだろ」
今の中学生ぐらいでは〈本〉といえば電子出版物で、紙に刷ったものなど一部の好事家が趣味で集める骨董品のような認識だろう。公共施設としての図書館こそあるが、書店は街に、両手の指で足りるほどの数しかない。そんな環境に取り巻かれているから当然、紙の本は高価な代物となっている。
「完成したら贈るよ」
「本当に? ありがとう」
社交辞令として喜んでいるようではなかった。安心すると不意に、濃川捜査官のことが頭に浮かんだ。紙本主義者の彼女も、やはり喜んでくれるだろうか、と。
そもそも、紙の本として出版することを決めたのは彼女の存在があったからだ。本は紙で読むと言っていた彼女の言葉を思い出し、電子だけで収益を上げられていたのを、編集部を半ば強引に説得して、どうにか出版に漕ぎ着けたのだった。どこかで彼女に手に取ってほしいという願いの具現化が、今回の紙での出版だった。
本来なら、この手で直接渡したいところである。だが、彼女の行方は頭脳警察も把握しておらず、科野の(非合法な)調査を以てしても、見つけ出すことはできなかった。
「一つの脳に二人分の人格が詰まってるわけだからね」何度目かの調査の後、科野は言った。「人工脳ではなく生脳に二人分。しかも一つは他人の脳を乗っ取る力を持っている。脳が正常に機能しているとはとても思えない状態だ」
「じゃあ、彼女はもう……」
「残念ながら」と、科野は首を振った。「初めからあの子は、ネットワークに接続していない自分の脳内に砂漠谷エリを閉じ込めるつもりだったんだろうね。或いは今も彼女の頭の中だけで、〈新世界〉が展開されているのかもしれない。いずれにせよ、〈身内の恥は身内の中で〉ってことだね」
「全部、一人で抱え込んだのか」あの小さな体で。そう思うと、胸を潰されるような心持ちがした。
だが同時に、最後に見た安らか表情も思い出された。全てをやり終え安心した、穏やかに眠るような顔だった。そういう顔を彼女が浮かべられたという事実は、一つの救いではないだろうかとも思う。
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