30−1

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 秋の空は高く、どこまでも青かった。

 地上へ目を転ずれば、人々が休日を謳歌していた。世界の彼方此方では色々なことがあるだろうが、少なくとも代々木公園の門前だけは平和に包まれていた。

 約束の時間まであと十五分。おれは深呼吸をした。朝から、いや前日の夜から気持ちが落ち着かなかった。西新宿からここまで来るのに歩いてしまったほどだ。緊張の理由は様々だったが、結局は〈娘に嫌われていないだろうか〉の一点に尽きた。

 あと五分、というところで呼び掛けられた。不意打ちに脈が飛んだ。声のした方を向くと、元妻が立っていた。その隣には中学生ぐらいの少女の姿があった。彼女は目が合うと、小さく頭を下げた。おれも頷いた。迎えの時間と集合場所を確認し、元妻は去って行った。十数年ぶりに再会したばかりの親子だけが残された。

「行こうか」

「はい」娘は敬語のイントネーションで言った。

 園内にも人の姿は多かった。家族連れにカップル、学生と思しきグループ。誰もが思い思いの時間を芝生の上で過ごしていた。そんな人々を横目に見ながら、おれたちは宛てもなく歩いた。

 彼女の方は緊張していたようだった。無理もない。物心も付かないうちに生き別れた父親など、ほとんど知らないおじさんと言ってもいいぐらいだ。一応、血縁関係があるから公然と二人きりにされているが、本当のところは今すぐ逃げ出したい——そう思っているに違いなかった。そんな緊張をどうにかほぐそうと、部活のことや勉強のことをあれやこれやと訊ねるが、返ってくるのは一問一答で会話が弾まない。嫌われているのかもしれないと思うと、こちらも気後れし、段々言葉が少なくなっていった。

「何か飲む? 喉渇いたでしょ」

 娘は頷いた。

「何がいい? 買ってくるよ」

「じゃあ、ミルクティーで」

「温かいの? 冷たいの?」

「温かいのを」

「了解」

 おれは彼女にベンチで待ってるよう言った。彼女はしばらくおれの顔を見つめていた。

「どうかした?」

「いえ……」

 おれは胸の内で首を傾げ、自販機へ向かった。ホットのミルクティーと冷たいブラックコーヒーを買って戻ると、一人ベンチに座る娘が誰かと話していた。通話だろうか。おれは心持ちゆっくりとベンチに近付いた。彼女がこちらに気付き、通話を切った。

「ありがとうございます」ミルクティーの缶を受け取り、娘は言った。

「友達?」

「そんなところです」

 おれは彼女の隣に座った。

「折角の休みの日に悪かったね」缶を開けながら、おれは言った。「友達と約束があったりしたんじゃないの?」

「それは大丈夫です」娘も缶を開けた。ゆっくり口に近付けて、慎重に一口啜った。「会うと決めたのはわたしですし」

「お母さんに言われたからじゃないの?」

「母はどっちでもいいって言いました。嫌なら断ってもいいとも」

 その時の元妻の顔が目に浮かぶようだった。断るように仕向けるような言葉が多かったのだろうというのは、あながち邪推でもあるまい。ようやくヒットを飛ばした漫画家といえど、水物商売であることに変わりはない。信用を勝ち取るには、不審に思われていた時期があまりに長かった。

「言いたくなかったら別にいいんだけど、どうして会おうと思ったのかな?」

 娘は答えず、手の中で缶をくるくる回していた。飲み口が丁度三周した時、彼女は顔を上げた。

「あ」

「え?」おれは娘の視線を追った。

 ひらひらと、黄色い蝶が飛んでいた。飛んでいるというよりは空気の流れに翻弄されているというような飛び方だった。その黄色は、秋の景色の中では季節外れにも思えるほどくっきりとしていた。

 おれは缶を置き、全身で蝶の動きを追った。タイミングを掴んだところで、上下から両手で包むように覆った。

 娘の真っ黒な眼差しが、おれの手に注がれた。おれは彼女の目の前で手を開いた。中からは蝶が、黄色い羽を羽ばたかせながら飛び立つ――はずだった。

 手の中には何もいなかった。たしかに捕まえたはずなのに。娘が、掌に注いでいたのと同じ目でこちらを見上げた。

「おかしいな」おれは呻くように言って、辺りを見回した。

 黄色い蝶は、何事もなかったように飛んでいた。青空の中で、わざと目立つように羽ばたいていた。

「おかしいな」おれはもう一度言って、頭を掻いた。

 娘が吹き出した。

「ほんとにやった」肩を揺すって笑いながら、彼女は言った。

「な、何が?」頭を掻く姿勢のまま、おれは訊ねた。

「わたしの知ってる〈お父さん〉も、よく同じことするんです」

「〈お父さん〉」おれのことではないようだった。元妻の新しい恋人だろうか。

「仮想人です。わたしの脳内で走ってるプラグイン」

「ああ」合点がいった。

「お母さんから話を聞いて、わたしなりに想像上の〈お父さん〉を作ってみたんです。お母さん、あんまり詳しく聞こうとすると嫌がったけど」

「そうだろうね」多いに納得できた。

「実は、今日会おうって決めたのも、仮想〈お父さん〉の言葉があったからなんです」

 おれはコーヒーを飲んで続きを待った。

「迷ってるわたしに、仮想〈お父さん〉は『本物はおれより更にカッコいい可能性がある』って言いました。『飽くまで可能性の一つだが』とも」

「実際に会ってみてどうだった?」

 彼女は飛んでいく蝶をしばらく見送ってから言った。

「飽くまで可能性の一つでした」

「ああ、そう」気をつけたが、やはりがっかりした声が出た。

「でも、わたしの想像は意外と外れてなかったなとも思いました」

 そう言って小首を傾げる彼女の笑い方は、仮想娘と瓜二つだった。おれの想像も意外と外れていなかった。

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