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 試しに姿勢を戻そうとすると、思った通りに体を動かすことができた。おれは空中で犬掻きをして、絡まったマリオネットのような状況を脱した。砂漠谷エリはやはり固まっていた。よくできた蝋人形のようだった。

 振り返ると、黒い紐に絡まれた濃川捜査官の姿があった。おれは彼女に駆け寄った。

「上手く——いったようですね」彼女は言った。瞼は閉じられ、蝋燭の火より心許ない声だった。

「傷、痛みますか。今外しますから」

 おれは巻き付いた紐を外そうとしたが、濃川捜査官はそれを制した。

「わたしは結構ですので、夢野さんは行ってください」

「何言ってるんです。おれたちの勝ちですよ。帰って世界中の賞賛を浴びましょう」

「ユリちゃん、あなた本気なの?」濃川捜査官の口からそんな言葉が洩れた。「こんなことをすれば、あなただって保たないのよ?」

 聞き間違いではなかった。言葉は確かに濃川捜査官の口から出たものだった。

「構わない」濃川捜査官が、こちらは恐らく彼女本人が言った。「初めからこうするつもりだったもの」

「離しなさい。こんなやり方は間違っている」

「わたしと繋がるのが望みだったんでしょ?」濃川捜査官は微睡むような声で言った。「絶対に離さない。ようやく、捕まえられたんだもの」

「離しなさい、ユリ。離しなさい」

「夢野さん」

「は、はい」不意に呼ばれ、おれはうろたえた。

「本当にありがとうございました。わたしもこれで、次へ進むことができそうです」

 おれは彼女の記憶で垣間見た、玄関を出て行く姉の背中を思い出した。

「ヒトは弱い生き物です。それこそが本質なのかもしれませんが」彼女は言った。「だからわたしは、姉と共に生きていきます。この人の隣にはわたしが居なければならないようですので——もちろん、わたし自身の弱さのためでもあります」

「大変な道なんでしょうね」おれは言った。「そういう選択をできるのは、濃川さんが強い証だと思いますよ」

 彼女は目を瞑ったまま微笑んだ。

「そうだといいのですが」

 背後で棚から本が落ちた。誰かが棚の後ろから押し出しているように、二冊、三冊と続々落ちていった。そのうちに、両側の棚自体が大きく揺れ始めた。

「直にここは消滅します。どうかお早く」

「濃川さんはどうするんですか?」

「わたしのことはご心配なく」

 そう言って彼女は口を噤んだ。安らかに眠っているようなその顔は、これ以上何を言っても野暮になると悟らせる力を持っていた。

「また会えることを願っています」野暮を承知でおれは言った。「お元気で」

 彼女の薄い唇が開かれることはなかった。ただ、小さく頷いたような気がした。おれは踵を返し、崩壊する書架の間を駆け出した。

 出てきた扉の位置は覚えていないはずだったが、自分の進むべき道は不思議とわかった。おれは迷うことなく書架の間を走り抜け、扉に辿り着いた。途中で通り過ぎた風景はどこも崩壊を始めていた。展開された〈新世界〉が、領域の持ち主の覚醒により終わろうとしているようだった。抗体プログラムは、おれたちの意図した通り機能していた。

 各結節点の覚醒を見届けながら扉を潜り、最後に団地の屋上に戻ってきた。夜は明けていたが、天頂は風景が崩れ、夜よりも暗い黒が露出していた。空の崩壊は見る見る拡がっていた。

 屋上から降り、自分の部屋へ向かった。居間に入ると、大地震の後のように室内は滅茶苦茶だった。寝室も同じ有様だった。その中に在って、一カ所だけ何かに守られたように整然としている空間が目に入った。ベビーベッドである。元妻のことがあったから一瞬迷ったが、やはり素通りはできなかった。

 恐る恐る覗き込むと、穏やかな、小さな寝顔がそこにはあった。根拠はないが、突然飛びかかってくるようなことはないと確信が持てた。おれはその寝顔に手を伸ばし、見た目以上に柔らかい頬に触れた。

「またな」

 返事はなかった。おれは自分のベッドへ行き、仰向けに寝転んだ。

 

 気が付くと、科野の病院の施術台に戻っていた。

 起き上がり、辺りを見回した。隣の台には誰も居なかった。コンソールの方を覗くと、机に突っ伏して眠る科野の姿があった。まさかと思い近寄ると、鋸を引いているのかと思うぐらい盛大な鼾が聞こえ、昏睡ではないとわかった。

 科野の肩には膝掛けが掛かっていた。彼女自身が羽織ったというよりは、誰かが労いも込めて掛けたもののように見えた。

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