28−3
「おじい様は、こうなることを望んでいなかった」濃川捜査官は呻くように言った。
「違うわユリちゃん。これはおじい様が理想とした世界よ。人間も脳も幸せに暮らせる、理想の世界」
「おじい様は脳の支配に抵抗しようとした」
「あのメッセージを聞いたのね」砂漠谷エリはまた一枚、破り取った紙を食んだ。「あれは彼がわたしたちのしようとしていることを完全に理解する前に遺していった言葉。彼は結局服従し、わたしたちに手を貸すことを選んだ。賢明というか、当然の判断ね」
砂漠谷エリの洞穴のような眼がこちらを向いた。奈落へ引きずり込まれそうなほど黒い目だった。
「あなたに何か期待していたようだけど」
おれは笑みを作ろうと心がけた。砂漠谷エリは笑わなかった。
「今や、脳をなくしたあなたがそこに居る意味って何なのかしら。男根だけが勝手に這いずり回っているようなものだわ」
「飛びっきり下品な喩えをどうも」おれは言った。「その男根が今、あなた方に一矢報いようとしているわけです。男根にも男根なりの魂というものがありますから」
「それを慰めてあげようというのが〈新世界〉なのに。あなただって本当は、あの世界を受け入れていいと思っているのでしょう?」
確かに、ほんの少しの間ではあったが、おれは妻と娘との生活を楽しんでいた。主夫として家事をこなしながら漫画家としてデビューを目指す生活を心地よいと感じていた。〈新世界〉に取り込まれそうになったのは、それが過去の甘い記憶を忠実に再現していたから、という理由だけではない。おれの側にも、相手に向かって開かれた窓があった。そこに付け込まれたのだ。
「そうですね」おれは言った。「あの世界は確かに居心地よかったし、今でも戻りたくないと言ったら嘘になる」
「だったら、何故あの場所を否定するの?」
「本当ではないからですよ」
「本当? 物理世界ではないから、ということ? たったそれだけの理由なの?」
「あんたら脳にはわからないかもしれないけど、おれたちにとっては重要なことなんですよ。触れるかどうかっていうのは、本当かどうかを証明するための、何よりも重要な情報なんです」
「触覚だって、わたしたちがそう感じさせてあげているものに過ぎないのよ? 視覚や聴覚と変わらない。いくらでも改変可能なの。ねえ、ユリちゃん?」
鞭が空気を裂くような音がした。身を屈めて砂漠谷エリへ突進していたはずの濃川捜査官が、黒い紐で首を締め上げられていた。紐は彼女の両手足にも巻き付いており、自由を完全に奪っていた。
「歩み寄ってくれるのは嬉しいけど、余計なものまで持ってくるのはいただけないわね」
濃川捜査官の右手首が締め付けられ、手にしていた注射器がこぼれ落ちた。床に当たった注射器は砕け、光の粉となって消えた。
「あまり手荒な真似はしたくないのだけど、言うことを聞いてくれないのなら仕方ないわね。ユリちゃんが乱暴するのはその形をしているせいならば、本来の姿にしてあげなくちゃ」
濃川捜査官に巻き付いた紐が蛇のように這い回り、彼女を絞め始めた。彼女は歯を食いしばり耐えていた。撃たれた脇腹では、ブロックノイズが更に拡がった。
「謝ったら感覚は切ってあげるわ。嫌な記憶で脳が傷ついてしまうものね」
おれは目を逸らし、振り切るように駆け出した。姿勢を低くし、砂漠谷エリ目がけて走った。
「簡単ですが、作戦を立てました」何枚もの扉をくぐる時に聞いた、濃川捜査官の声が蘇った。「わたしが囮となって砂漠谷エリの気を引きます。その隙に夢野さんが彼女に近付き、ワクチンを注入してください」
「簡単に行くとは思えないんですけど」
「必ず上手くいきます。ですから、ワクチンは夢野さんが持っていて下さい」
「ワクチンを打てたとして、それでお姉さんを止められるんですか?」
心なしか、間があった。
「大丈夫です」
四の五の考えている場合ではなかった。 おれはまず、己のやることに集中するべきだった。右の掌に注射器を呼び出した。濃川捜査官からおれに託された本物を。それを握りしめ、砂漠谷エリに突進した。相手はまだ気付いていなかった。おれは彼女の腰を目がけて床を蹴った。
「駄目よ」
相手の胴を捉えた感触はなかった。砂漠谷エリの体は手を伸ばせば届きそうな距離にありながら、おれの体は自由が利かなくなっていた。右手に巻き付く黒い紐が見えた。首や足にも恐らく、同じものが巻き付いていた。
「やめてちょうだい。汚い手で触られたくないわ」砂漠谷エリは妹の方を見たまま言った。
首が速やかに締め上げられた。無理矢理上を向かされ、足も引き上げられて海老反りになった。力は緩められなかった。そのまま背骨を折ろうとしているようだった。
右手の注射器だけは離さぬよう、意識を保ち続けた。だが、力を込めていようにも、手の感覚が溶けていった。そもそも物を考えようとする力が失われつつあった。腰骨が軋み、腹の皮が裂けそうなほど張っていた。いっそここで気絶した方が幸せだという思いが、頭を過った。結局おれは、世界を救う器ではなかったのだ。
意識は、いつまで経っても途絶えなかった。
代わりに——なのかは知らないが、締め付ける力が止んでいた。何か意図してのものかと警戒したが、いくらか待っていても力が加えられることはなかった。
砂漠谷エリは相変わらず濃川捜査官の方を見ていた。だが、先ほどまでとは様子が違った。その格好は、自分の意思ではなく、やむを得ずそうしているという風に見えた。彼女は動きたくとも動けないのでは、と。
「ユリちゃん——」空いた唇の隙間から、虚ろな声が漏れた。「あなた——」
「夢野さん!」濃川捜査官が鋭く言った。
おれは弾かれたような心待ちで、注射針を砂漠谷エリの腹部に突き立てた。狙いを定めている余裕はなかった。上手く刺さっていることを前提に親指の腹でプランジャーを奥まで押し込んだ。失敗したら全て終わりだ。それはほとんど賭けだった。
鼓動が大きく脈打つような音が響いた。抗体を載せた同期情報が拡散されていったのだと想像できた。脈動は続いた。何度も、何度も、何度も。
「人間なめんな」おれは言った。
黒い球体が震えては、抗体プログラムが世界中へ送り出されていった。
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