30−4(終)
やがて入り口に人影が現れた。おれの心は一瞬だけ明るくなったが、すぐに暗さを取り戻した。
「やあ、センセイ。出版おめでとう」おれの本を手にした科野が行った。彼女は辺りを見回し、「サイン会、まだ始まってないのかな?」
「お前が記念すべき第一号だよ」
「それは——本当にすまない」
「マジなトーンで謝るんじゃない」
おれは彼女から本を受け取り、見返しにサインを書いた。
「あ、名前は書かなくていいよ」
「お前はおれを傷付けにきたのか?」
「センセイには見えないと思うけど、下層現実のみんなも来てるんだよ」
そう言って彼女は後ろを示した。一見すると誰も居なかった。どれだけ目を凝らしても誰も居ないようだった。完璧なマスキングだった。
「……ホントに居るんだよな?」
「じゃあ、わたしはこれで」
「おい」
頑張ってね、と適当に手を振って科野は出て行った。それから客足は遠のいた。取材もやはり来なかった。おばさん連中が休憩所と間違えて入ってきて、追い返された。また、老人が一人入ってきたが、こちらもやはりトイレと間違えているようだった。
店員が老人の案内に消えると、編集者が言った。
「まさかこれほどのものとは」
「それ、使い方違うから」
「あ、すみません」彼はこめかみを押さえながら言った。「ちょっと仕事の電話です」
「出るの?」
おれの言葉も聞かず、編集者も出ていった。
だだっ広い会議室に、一人で取り残された。煌びやかな装飾の施された特設セットの中に一人で座っていると、何かの罰を受けている気分になってきた。
アシスタントたちにもう少し優しくしてやるべきなのかもしれない——などと潮らしいことを考え始めたころ、また入り口に誰かが現れた。店員さんか編集者かと思ったが、どちらでもなかった。
その人影は背の低い、少女のようだった。レインコートのようなものを羽織り、フードを目深に被っていた。先日会ったうちの娘よりも小さいかもしれない。だが、その確固とした歩き方は、幼さとはほど遠いものだった。ピンと伸びた背筋は、身長の低さを補うばかりか、彼女を人として何倍にも大きく見せていた。彼女は一直線にこちらへやって来た。近付いてくるごとに、彼女が本を抱えているのがわかった。
フードの中は暗く、表情というものが読み取れなかった。
彼女はおれの目の前に立つと、脇に抱えていた本を差し出してきた。ぼんやりしていたおれは、何を求められているのかすぐにはわからなかった。改めて本を突き出され、ようやくそれを受け取った。
表紙を開き、見返しにサインをした。
「お名前は?」
「二人へ、と」彼女は指で〈ピース〉の形を作った。
意味がわからなかったが、おれは言われるままペンを走らせた。
「どうぞ」本を返すと、
「どうも」と、受け取って胸に抱えた。
彼女はなかなか立ち去ろうとしなかった。外では小さな子供が姉を呼びながら駆けていった。
不意に、右手が差し出された。
「握手」フードの中から声がした。「していただいてもよろしいですか?」
「もちろん」おれは言って、ズボンで手を拭いてから彼女の手を握った。
小さく白く、少しでも力の加減を間違えたら砕けてしまいそうな手だった。
握る指に、固いものが当たった。彼女の薬指には指輪が嵌まっていた。
脳内を電気が走ったような感覚に襲われた。顔を上げると、フードの内側には笑みが浮かんでいた。
おれはそのまま、彼女の手を離すことができなかった。
〈了〉
NODE 佐藤ムニエル @ts0821
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