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下層現実の全容を正確に把握するのは難しい。というより、そんなことをしても無意味である。
それはシミが広がるように拡大していき、一説にはネオ東京全体を覆っているとも言われている。〈どこかにあるもの〉ではなく〈ここにあるもの〉なのだ。ただ見えていないだけで、下層現実はおれたちのすぐそばにある。
もっとも、下層現実を知覚するためにはあちらの専用ネットワークへのアクセス権が必要になる。裏の世界への入場券というわけだ。当然、表の世界で順当に生きているだけで手に入るものではない。濃川捜査官との約束を果たすため、おれはそれを入手しようと計らった。なるべくなら切りたくないカードを切ることになった。
新宿駅東口の階段を上がっていくと、ロータリーにまたしても砂漠谷三姉妹のホログラムが立っていた。やはりその足元で、濃川捜査官はホログラムを見上げていた。
「すみません、お待たせしました」おれは言った。
「いえ。こちらこそ、日程を調整いただきありがとうございます」
飯田橋の喫茶店で話した時は、すぐにでも下層現実に踏み込みたいといった感じの彼女だったが、その日の晩に電話があり、向こうの都合で次の捜査は翌週に持ち越された。ツテを辿る上で時間に余裕ができるのはこちらとしても都合がよく、お陰で充分な下準備をすることができた。といって、これから訪問する相手に事情を説明しただけなのだが。
サバクタニのCMが流れている電光スクリーンを通り過ぎ、靖国通りを渡ると、歌舞伎町に入った。細い道の両側に、いくつもの細かい物理看板が掛かっていた。夜になるとこれらにネオンが灯り、ケバケバしい極彩色で辺りを染めるのだ。通りの突き当たりには、口を開けた大昔の特撮映画に出てきた怪獣の顔が覗いていた。駅前の砂漠谷三姉妹に負けぬほどの大きさだが、彼女たちの方が色々な意味で強そうだった。
表通りは平和なものだが、一本路地を入ると途端に怪しい顔つきの人間が増えた。一時はクリーンな街になりかけたと聞くが、疫病と災害と戦争に立て続けに見舞われた〈泣きっ面に蜂時代〉を経て、またしても治安は悪くなったという。少なくとも、おれたち世代がこの街に対して抱く印象は〈それなりの覚悟を持って足を踏み入れなければならない場所〉である。不用意に立ち入って何か起これば、それは入ってきた方が悪いのだ。そうした点で、ここには下層現実と通ずる道理がある。
端からみると疚しい関係に見えるのか、道端に佇む客引きたちから頻りとモーテルを勧められた。全て聞こえないふりをしておくが、やはり自然と歩調は早まった。
「こういう場所にはよく来られるのですか?」やや小走りでついてきながら、濃川捜査官は言った。
「用事がなかったら来ませんよ。こんな用事でもなかったらね」
「下層現実の入口はこの先に?」
「その一つが」と、おれは言った。「現実世界からあちらへ行くには、一番手頃な入口です」
辿り着いたのは、細い三階建ての雑居ビルだった。一階が中華料理店、二階に雀荘が入っており、三階だけが何の看板も出ていないかった。濃川捜査官のような女性を連れて入るのは気が引ける雰囲気だが、外に待たせておくのもまた危険だった。仕方なく、彼女を伴い暗い階段を上った。
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