8−2
湿っぽい空気が階を上がるごとに増していった。三階には扉が一つしかなかった。目の高さに合わせた位置に、白いプラスチックにゴシック体で〈馬橋探偵事務所〉と書かれたプレートが貼り付けてあった。なんとなく〈探偵〉と〈警察〉が対立概念のような気がして疚しい気持ちが湧いてきた。案の定、濃川捜査官はいぶかしげにプレートの字を読み上げた。
「探偵、ですか」
「下層現実の事情に通じた人間です。決して悪人ではありません。元警察官ですし」弁解めいてしまったことを打ち消すように、おれはドアノブを回した。
途端に中から、煙草のにおいが流れ出てきた。ボヤかと思うほど煙たい室内に身体を滑り込ませた。実際、机の上で針の筵のようになった灰皿から薄い煙が立ち上っていた。中で本当に吸い殻が燃えているのかもしれなかった。そんな危機になど全く気付いていないように、家主は机に脚を載せたまま、椅子の上で寝こけていた。あるいは既に一酸化炭素中毒で死んでいるのかもしれなかった。
「夢野さん、窓を開けてください」
濃川捜査官に言われるまま、おれは室内の窓という窓を開けた。その間に、彼女は灰皿を持って事務所を出て行った。そんな周りのドタバタの中、椅子でうなだれていた男がふごっという音と共に目を覚ました。
「あれ、夢野チャン?」男はムニャムニャ言いながら、机に置いた派手な腕時計を取った。それから大きくあくびをしながら、「もうこんな時間か」
「危うく死ぬところでしたよ、馬橋さん。灰皿が燃えてました」
「そうなの? 久しぶりにスゲー睡眠が深かったんだけど」
そこへ濃川捜査官が、空の灰皿を手に戻ってきた。彼女が灰皿を元の位置に戻すと、馬橋は開襟シャツのポケットから紙巻煙草を抜き出し、当たり前のように一本吸い始めた。その振る舞いに、おれはなかなか濃川捜査官の方を向くことができなかった。
馬橋の淀んだ眼差しが、濃川捜査官を頭の先から舐め回した。やがて彼は煙を吐きながら言った。
「このチビ――」彼は明らかに言葉を呑んだ。「このコが、例の?」
「頭脳警察の濃川です」彼女はピシャリと言った。「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「礼儀正しいねえ。大事だ、そういうのは」
「あの、馬橋さん」おれは二人の間に割って入った。「それで、アクセス権は用意してもらえましたか?」
「したした。しましたよォ」咥え煙草で言いながら、彼は机の抽斗から名刺大の紙切れを一枚取り出し、机の上に置いた。
「ありがとうございます」
そう言って受け取ろうとすると、馬橋は紙切れを自分の方へ引き寄せた。
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