8−3

「ええっと……」薄々予感はしていたが、上手く言葉が出なかった。「馬橋さん?」

「最近、向こうに行きたいって人が多くてさあ。これを手に入れるのもなかなか苦労したんだよねえ。今日も欲しいって言われたし」

「いや、でもこの間は大丈夫だって言ってましたよね?」

「こないだはこないだでしょ。いい、夢野チャン? 人間の細胞ってのは、日々刻々と入れ替わってんの。こないだのオレが言ったからって、今日のオレが同じことを言うとは限らないの。わかる?」

「前金は払ったはずです」決して少なくはない額だが、必要経費として身銭を切ったのだ。

「だから、それを受け取ったのはこないだのオレ。今日のオレはまだ一銭ももらってないの。わかる?」

 屁理屈をこねていることは、相手も承知の上だろう。依頼主が国家機関の人間ということで、更に吹っ掛けられると思っているようだ。あるいは、こうした薄暗い場所で生きる人間として、表社会で生きる警察官をやっかむ心もあったのかもしれない。

 おれが取り繕うより先に、濃川捜査官が口を開いた。

「なるほど。あなたの言い分は理解しました」

「さすが、頭脳警察サマはお勉強が得意なだけある」

「つまり、これから時間が経って細胞が入れ替わったあなたは、今のあなたとは別人であるということですね」

「そういうことになるね」

 不意に、彼女の考えていることがわかった。が、既に手遅れだった。おれが止めようとした時には既に、馬橋の身体は宙を舞っていた。突然のことに脳の処理速度が上がったおれの意識は、彼が薄ら笑いを浮かべたまま頭から書類棚に激突していく様をスローモーションで捉えた。

 棚のアルミの拉げる音が響いた。その中に、声とも気道が圧迫されて出た音とも取れぬものが混じっていた。

 逆さまに、俗に言う〈恥ずかし固め〉の姿勢にされた馬橋は、まだ己の身に何が起きたのか把握できていないようだった。彼の指は煙草を挟んでいた時のままの形だったが、そこにあった吸いさしはリノリウムの床に落ちていた。それを黒のパンプスが踏みにじった。ツカツカツカと床を鳴らしながら、濃川捜査官は馬橋の前に立ちはだかった。

「カードを渡してください」

 そこでようやく、馬橋も状況を理解したようだった。自分をそんな格好にさせたのが、目の前の小さな女性であることも。

「け――警察がこんなことしていいのかよ……訴えんぞ」

「どうぞお好きに。ですが、わたしが投げ飛ばしたのは三十秒前のあなたであって、今のあなたではありません。全くの別人が被った被害を、あなたが訴え出てどうするのですか?」

「屁理屈だ」

「そうです。理解されているようで安心しました」彼女は腰を屈め、馬橋の指から紙切れを抜き取った。それからこちらへやって来た。「時間がありません。行きましょう」

 濃川捜査官はさっさと出て行った。ドアの閉まる音が、心なしか大きく響いた。

「ひどいぜ、夢野チャン」恥ずかし固めの馬橋が呻いた。

「すみません、この埋め合わせはいつか必ず」おれは手を合わせた。

「あの女に何か弱みでも握られてんの?――ってか握られるような出っ張りばかりか」

 おれは頭を掻いた。彼には有料とはいえ、MINDを都合してもらった義理もあった。危ない橋を渡らせたのは確かだった。

 逆さまの馬橋が、声の調子を落として言った。

「気を付けろよ。あの女、妙だぜ」

「一通りの武道は身につけているらしいです。体格差などものともしないのでしょう」

「そこじゃねえ。あのチビ、ホントにサツかも怪しいぜ」

「偽物ってことですか?」おれは思わず入口をうかがった。

「或いは、組織とは全然関係なく動いてる。いずれにせよ、まともなサツのやることじゃねえよ。あんまり関わり合いにならない方がいいって、元サツの勘が囁いてる」

 人員不足を理由にした単独行動。相手の脳を破壊しかねなかった強引な捜査。いくら頭脳警察が強権的で特殊な組織とはいえ、やはり彼女の行動には違和感があった。公的機関の持つ事務的な冷静さを欠いているというか、さらに端的に言えば危うい〈焦り〉のようなものを感じるのだ。

「ところで夢野チャン……」

 馬橋の声が思索に割り込んできた。彼の赤紫に変わった顔が目に入った。

「そろそろ首が限界なんだけど」

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