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 濃川捜査官はビルの前で待っていた。彼女は頻りと、馬橋から取り上げた紙片を確かめていた。その使い方がわからないようだった。

「偽物を掴まされたのでしょうか」と、彼女は言った。

「彼はあんな見た目ですが、悪人というわけではありませんよ。おれが言っても説得力はないでしょうが」

 すると、濃川捜査官はただでさえ小さい肩をさらに小さくして言った。

「投げ飛ばしたのは反省しています。ですが、他人に時間を無駄遣いさせるのは悪です」

 おれも肩をすぼめた。

「まあ、本人にもいい薬にはなったはずです」それから、彼女の手にした紙片を示した。「そこにコードが印字されているでしょう」

 紙には十三桁の英数字が記載されていた。

「メガネで付近のネットワークリストを表示してください。その中に、〈H・U・W〉というローカルネットワークがあるはずです」

 濃川捜査官の眼鏡のレンズが白く光った。彼女は視線操作で空中に表示した仮想ウインドウをスクロールしているようだった。

「ありました、〈H・U・W〉。パスワードを訊かれています」

「そこに、紙に書かれたコードを入れてください」

 思考入力するような間が空いた。

「入れました――音声入力が求められています」

「そうしたらこう唱えてください。〈H・U・Wハロー・アンダー・ワールド〉」

「ハロー・アンダー・ワールド」

「初めは戸惑うかもしれませんが、そこから動かないで」

「はあ……」

 すると彼女の顔に驚きの色が浮かんだ。それが見られたのも一瞬で、次の瞬間には、彼女の姿はおれの視界から消えていた。認識不能になったのである。

 おれもローカルネットワークに接続した。こちらは前の接続履歴が残っていたので、パスワードの入力はなかった。〈この門をくぐる者は一切の望みを捨てよ〉という仮想文字が目の前に現れて消えた。そして接続が完了した。

 周囲の風景が一変した。明るかった空が狭まっていた。四捨五入すれば〈何もない〉に等しかった路地裏は、どこか外国の暗黒街のような様相を呈していた。これが本来の、現実のこの街の姿だった。消滅現実DR技術というやつだ。見せたくない建物や人間といった物理オブジェクトはホログラムで視覚的に覆い隠されていたのだ。

 街には雑多な看板に加え、様々な色・書体で彩られたエアタグが溢れていた。文字の洪水。しかもそれらの多くは、表通りを彩る看板のようなネオンの輝きに満ちていた。エアタグに書かれているのは無意味な言葉ばかりだった。見る人によっては意味をなすのかもしれないが、無関係の人間にとっては無意味な落書きにしか見えなかった。他には、卑猥な言葉や偏った政治的主張も少なくなかった。自作のポエムを記しているものもあるが、色々な意味で見るに堪えなかった。

 情報の墓場、とでもいおうか。ここでは〈表の世界〉で視界確保と美観維持の観点から規制の厳しくなったエアタグが無尽蔵に貼られ続けていた。かつて〈表の世界〉を覆い尽くした人々の表現欲のはけ口となっているようだ。下層現実は、それらの欲の受け皿として誕生した、一種の解放区なのである。

 エアタグが多い理由はもう一つ。それは、ここでは、自身に付いたタグが全て可視化されるという点だ。〈表〉では一般人には見ることのできない公的機関が付けたタグ(税金の滞納履歴や賞罰の類い)までもが、ここではつまびらかにされてしまう。つまりプライバシーがゼロになる。誰がどういう意図でそんなお節介な機能を付けたかは、今となっては定かではない。だが、それによってこの空間内の情報量は激増し、情報逃亡者たちにとっては身を隠すのに絶好の場所となった。木を隠すには森に、というわけである。

 傍らには、濃川捜査官が立っていた。言いつけ通り、一歩も動かずに待っていたようだった。或いは、動けなかったのかもしれない。下層現実では急な情報量の変化に目と頭が追い付かないし、夜のような風景には時間の感覚も乱れる。初めてでは、身体に変調をきたしてもおかしくはなかった。

 おれは彼女に纏わり付いたタグに目を通した。数はそれほど多くはなく、特段目を引くものもなかった。馬橋の考えすぎなのかもしれないと思った。

「濃川さん?」

 こちらの呼び掛けに、彼女ははっとした。

「大丈夫ですか?」

「はい……」彼女は頷いた。「すみません、あまりの情報量に圧倒されてしまって」

 とにかく、ここには文字情報の量が尋常ではなかった。それこそ吐き気を催すほどだった。文字は目に付けば何かしらの情報が頭に認識され入ってきてしまうので余計、始末に負えないのだ。

「一度、戻りますか?」

「いえ、大丈夫です」彼女はこめかみに指を充てながら言った。「これだけの空間がネオ東京に隠れていたなんて」

「外からは見られないことを目的に作られた空間ですからね」

 道の向かいから、エアタグの塊がやって来た。恐らく人間だが、全身を覆われているため老若男女の区別はつかなかった。重ねに重ねられた細かいタグが蠢き、それぞれの文字を読み取るのも困難だった。

「あの人……さっきは歩いていませんでしたね」

「下層現実で生きる人間は、下層現実のローカルネットワークにアクセスしていないと視認できません」

「わたしは脳を電化していません。肉眼では視覚操作の作用を受けないはずですが」

「DR——空間全体に物理的なマスキングをかけているんですよ。元々はこの辺り一帯の猥雑な景観を外国人観光客たちの目から隠す機能でしたが、それがいつの間にかハックされて、下層現実を覆うのに転用されているんです。同じ機能は都内の色々な場所にあるし、機材を揃えれば個人でも使用可能です。軍が使っている光学迷彩と原理は同じです」

「そんな危険なものを行政は野放しに」

「熱検知など、厳密にスキャンを掛ければすぐに見つけることはできますからね。危険だから放置したというよりは、興味がないから放っておいた、といったところなのでしょう。結局は〈好き者のたまり場〉というのが、お役所の人たちの下層現実に対する認識なのだと思います」

「これでは迂闊に路地などへ立ち入ることはできませんね」

「その通り。だからアクセス権を持たずにここに来るのは危険なんです。闇の住人に、闇の中へと引きずり込まれかねない。目に見えずとも、お互いに物理干渉はできますから」

 我ながら異界への案内人としてはなかなか決まったと思ったが、言い終えた時、既に濃川捜査官は隣にいなかった。道の先に、駆けていく彼女の後ろ姿があった。

「ちょ、濃川さん?」

 彼女は走りながら振り返った。

「今、ジェット・コースケ氏を見ました。そこの道を右へ」

「一人じゃ危ないですよ」

「身柄の確保が先決です。後から来てください」そう言って、彼女は角を曲がっていった。

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