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 こちらも懸命に追い掛けた。だが、氾濫する仮想オブジェクトのせいで上手く走ることができなかった。単に文字だけならぶつかっても支障はないが、文字に埋もれた先に何かないとも言い切れなかった。そんな風に情報の塊を避けているうちに、すっかり出遅れてしまった。ようやく角を曲がってみると案の定、そこに濃川捜査官の姿はなかった。

 彼女を探さなくては。だが、ここで闇雲に駆け回ったとて、労力を無駄に費やすだけだ。位置情報は調べようと思えば簡単に調べることができた。おれはおれで、本来の用事を果たすことにした。

 下層現実の奥の奥、仮想オブジェクトの靄に隠れるように、そのビルは建っていた。馬橋の事務所が入る雑居ビルとは違い、こちらは煉瓦造りの、レトロモダンな装いの建物だった。通常世界でこのような建物が歌舞伎町にあるとは聞いたことがないので、下層現実内で作り出されたデザインなのだろう。入口脇の看板にはまたエアタグが増えていた。手で掻き分けると、〈脳のことなら何でもおまかせ しなの脳クリニック〉とあった。闇医者とは思えぬポップな看板である。戸を開くと、カウベルが鳴った。待合室に人影はなかった。受付へ行くと、いつもの茶髪の看護師が、雑誌を読みながらせんべいをかじっていた。硝子の仕切を叩いて来意を伝えると、彼女は面倒くさそうに顔を上げた。

「中、どうぞ」一瞥しただけで、彼女は雑誌とせんべいに戻っていった。

 こちらとしても勝手知ったる医院である。案内なしに廊下を進み、診察室の扉をノックした。返事を待たずに戸を開けた。

 中では白衣を纏った女医が机に向かっていた。彼女は背中を丸め、煌々と光るディスプレイに食い入っていた。実際に顔の前半分が埋まっているから、ディスプレイは仮想オブジェクトなのだとわかった。

 おれが咳払いすると、彼女は画面から顔を抜き出してこちらを振り返った。全体的に、無駄な肉を削いだようなシャープな出で立ち。だが、それが不摂生の賜物であることを蒼白い肌と真っ黒い隈のコントラストが物語っていた。どれほど長い間、日の光とは無縁の生活を送っているのか一瞬だけ疑問に思うが、すぐに興味が失せた。

「おやセンセイ、珍しいね。また脳が疼くのかい?」科野は口の端を吊り上げた。

「予約を入れておいただろ。仕事少ないくせに忘れるな」

「これでも最近忙しくてね。昔のツテで電化手術のホロを手に入れたんだよ。やっぱりいいものだよ、ナマは。頭骨を開けた時に現れる灰色の輝きが堪らない。センセイも見るかい?」

「結構だ」おれは丸椅子に腰を下ろした。「それより仕事をしてくれ」

「作品作りの参考になると思うんだけどね」ぶつぶつ言いながら、科野は掌で空を切り、仮想カルテを呼び出した。「で、今日はどんなご相談?」

「最近、妙なことが起きた」

「接近禁止の愛娘が目の前に現れたとか?」

「それはお前の仕業だろ」

「仕業とは人聞きの悪い。自分で頼んできたくせに」

「話の腰を折るな。相談したいのはそのことじゃない。最近、サバクタニのサーバで何かトラブルは起きてないか?」

「小さいものならしょっちゅうだけど、大きいのは聞いていないね」

「記憶漏洩案件は?」

「消失ならいくつかあるけど、漏洩はないね。何か心当たりがあるのかい?」

 おれはジェット・コースケ氏による盗作について打ち明けた。

「なるほど。なかなか面白いことになってるね」

「面白くなどない。死活問題だ。原因が何なのか、わからないか?」

「ふむ」科野は机に肘を突き、考え込んだ。「順当に考えると、気のせい、だね」

「気のせい、だと?」思わず声が高くなった。「そんなはずはない。たしかにあれはおれのアイデアを元に描かれたものだった」

「そりゃ偶然似ることもあるだろう。発想が凡庸なら尚更さ」

「凡庸?」頭に血が上るのを感じた。「凡庸って言ったのか、今?」

「ネットにデータが落ちてたから読んでみたけど、何だいあれ? サルが一ヶ月ぐらい適当にタイプライター叩けばできそうな話じゃないか」

「謝れヤミ医者! この世の全ての創作者に謝れ!」感情抑制が働くより先に、怒りが沸点へ到達した。

「冷静になりなよセンセイ」珍しい動物の珍奇な行動を眺めるような眼でニヤけながら、科野は言った。「センセイの才能如何はさておき、これは朗報じゃないか」

「何が」

「情報漏洩は起きていない。センセイの恥ずかしい頭の中身は誰にも見られていないということだよ」

「誰が恥ずかしい頭だ」今度は感情抑制が働いた。「それに何も解決していない。仮にあの漫画がおれのアイデアを盗んだものではなかったとしても、おれの偽証罪は消えない。むしろ、勘違いで被らなくてもいい罪を被ったことにならないか?」

「わざわざ面倒くさい方へ突っ込んでいくのはセンセイの十八番おはこじゃないか。職業漫画家になったのだって」

 それについては何も言えなかった。適性試験をパスするための神経回路づくりを彼女に依頼したのは、誰あろうおれ自身であった。

「これは興味深い傾向だよ、センセイ。本来、合理的な判断しかできないはずの〈脳なし〉が、こんな非合理的な選択ばかりするなんて。バグか、あるいは何か新しい進化の兆しなのか。今すぐ頭を開いて見せてほしいな」

「お前は開頭がしたいだけだろ」彼女の後ろの壁に掛かった糸鋸がイヤでも目に入った。

「まあ、手術は追々するとして」

「しない」

「データは取らせてもらえるよね? かかりつけ医なんだし」

「そういう契約だからな」おれは溜息をついた。それから、神経回路づくりの報酬を払うべく、壁際のベッドへ寝転がった。

「おかしなことっていうのは」コンソールを操作しながら科野が言った。「アイデアを盗まれたってことだけかい?」

「いや、もう一つある」おれは目を瞑ったまま答えた。

「センセイ、ものの伝え方が絶望的に下手だね。人並み以下。〈脳なし〉なのに」

「お前が話の腰を折るからだろ」つい目を開けて彼女を睨んでしまった。

「で、そのもう一つとは?」

 今度は飯田橋での口が勝手に動いたように感じた一件を話した。記憶は鮮明に残っているので、細かな点まで余すことなく伝えてやった。

「なるほどねえ」

「何かわかるのか?」

「センセイはその刑事の子に惚れている」

「帰るぞ」

「冗談だよ」それから科野の声が変わった。「しかし、合点はいった」

「何だよ」

「センセイの個人ストレージにバックドアが仕掛けらた形跡があるんだ」彼女は棒付きアメのフィルムを剥がしながら言った。

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