9−3

「バックドア?」

「侵入の跡さ。ここから入って、センセイの人工脳に介入したらしい」

「ちょっと待て」頭の奥に痺れのような感覚を味わいながら、おれは言った。「介入だと?誰かがおれを操っていたとでも言うのか?」

「端的にいえば、まあそうなるね」彼女の口元で、白い棒が上下した。

 おれは頭を抱えようとして、科野に諫められた。おれの頭には仰々しい物理端末が巻き付いていた。脳スキャン用のものらしいが、適切な解除手順を踏まずに外すと人工脳を傷つけると脅されていた。特におれの場合はサーバとの通信ができなくなるとのことで、完全な記憶喪失になるとのことだった。

 それにしても、頭蓋の中に虫でも入ってきたような不快感は堪え難かった。

「おれを勝手に喋らせたのは、その〈侵入者〉なのか?」

「状況的にその可能性は高い」

「今もそいつはおれの頭を覗いているのか?」

「いや、その跡が見られるだけだ。巧妙に塞がれていて、こちらから辿ることはできそうにない」

「誰がこんなことを。やり手のクラッカーか」

「だとしても、わざわざサバクタニを敵に回してセンセイ程度の漫画家の脳へ侵入するのはリスクとリターンが見合わない。愉快犯だとしても、口を動かすだけなんて使い方がつまらない」

「口以外も動かせるのか?」いくつかの失礼な物言いに言いたいことはあったが、ここは堪えた。

「やろうと思えば身体を乗っ取ることだって可能だよ。NODEシステムは元々、意識の保存・転写を目的に作られたものだからね。原理的には別の肉体に意識を移して生き長らえさせることができる。つまり不老不死だって実現可能だ。それがどういうわけか、今では記憶を保存することだけに機能が限られている。まあ、そこが技術の現実的な落としどころなんだろうね。車が空を飛ばずに、電気で走る方向に進化したのと同じことさ」

「〈脳なし〉も、そんな夢の産物か」

「サバクタニが一生目を掛けてくれるんだからよかったじゃないか」

「脳を取り上げられることと較べたら割に合わん。現にこうしてトラブルに巻き込まれているんだからな。それで、おれの頭に侵入したのは誰なんだ? 目星はついてるんだろ?」

「ああ、それ聞いちゃう?」

 言葉を濁すような言い方におれは眉を顰めた。そこへ診察室の外から、棚でも引っ繰り返したような物音が響いた。続いて叫び声のようなものも。

「急患かな」と、科野は出て行こうとした。

「待て。これを外して行け」頭に端末が付いたままだった。

 すると科野は、おれの頭から無造作に端末を引き剥がした。一瞬、意識が白い光に包まれた気がしたが、すぐに元の状態に戻った。幸い、ここに来た理由も経緯もちゃんと覚えていた。冷静になると今度は憤りが湧いてきた。

「こういう風に外しちゃいけないんじゃなかったのか?」

「ベッドを空けといてもらわないと」

「脳が使えなくなるかもしれなかったんだぞ?」

「使えてるんだからよかったじゃないか」そう言って彼女は、スリッパをペタペタ鳴らしながら診察室を出て行った。

 おれもベッドから降り、廊下へ出た。待合室の方が騒がしかった。

けものが、獣が来る!」先ほどの叫びの主と思しき若い女が大声で言った。上下小豆色のジャージ。どこかの中学のもののようだった。

 小豆ジャージの女は床に組み伏せられていた。背中に乗り、彼女を押さえ付けているのは濃川捜査官だった。下で暴れる小豆色に揺られる様はロデオのようだった。だが、その拘束力は確かなものらしく、ジャージの女はやがて抵抗をやめた。

「あなたの身柄を確保します」濃川捜査官はジャージの女に言った。「ジェット・コースケさん」

「獣が……来る……」女は呻くように繰り返した。

「夢野さん」

「あ、はい?」突然呼ばれ、我ながら素っ頓狂な声が出た。

「すみませんが、ポケットから手錠を出していただけますか?」

「はあ」言われるまま、濃川捜査官のジャケットから手錠を取り出した。二つの輪が鎖で繋がれているものを想像していたが、両端に重りのような塊のついた三十センチほどの紐だった。しげしげ眺めていると急かされたので、彼女へ渡した。

 紐がジャージの両手首を一周し、塊同士が接合した。すると紐の部分がキュッと締まり、手首を拘束した。

「申し訳ありません、お騒がせしました」濃川捜査官は立ち上がりながら、科野に言った。「外で確保するつもりだったのですが、こちらへ逃げ込まれてしまいました」

「いえいえ。楽しい捕り物を見せてもらえました」そう言う科野の口は、ニヤつきに歪んでいた。彼女は視線を濃川捜査官の頭に注いだまま、直脳で話し掛けてきた。『何だいこの可愛い生き物は。センセイの知り合い? 綺麗な脳のニオイがするね』

「濃川さん。この人が?」おれは二人の間に割り込んだ。

「はい。顔をはじめ、身体的特徴が一致します。間違いありません」

 やはり見たことのない女だった。どこかですれ違っていたとしても、言葉を交わした記憶はなかった。

「ふむ」ジェット氏の傍らに屈み込みながら、科野が言った。「この人、タグが全然ないね」

「夢野さん、こちらの方は?」

 おれは濃川捜査官を科野に紹介し、その逆も行なった。科野が元脳外科医で、医師免許を剥奪された身であることは伏せておいた。

「タグがない、とはどういうことですか?」

「その辺を埋め尽くしてるエアタグが全く付いてないってこと。下層現実ここの住人なら、不可視化しない限りビッシリ覆われてるはずなんだけど」こんな風に、と科野は実例を示した。途端に彼女の全身が夥しい数の仮想札に覆われ、蓑虫のようになる。彼女が動く度、仮想札たちもモゾモゾ動いて気色悪かった。科野はタグを不可視に戻した。

「この人も不可視にしているのではないのですか?」

「表示の切り替えは傍からも可能なんだ。けど、この人の場合は覗いてみてもタグは一切貼られていない。こんなこと、ここではあり得ないよ。普通はそこら辺のお節介な野良AIが表のネットワークと履歴を参照して勝手にタグを貼り付けるからね」

 おれは科野のタグを可視化した。彼女が表の世界で行った数々の悪行もしっかり明文化されていたので、別の無害なタグの下にこっそり隠した。

「意図的に消された……」濃川捜査官は呟くように言った。

「そう考えるのが妥当かもね」

 誰が、とは濃川捜査官は問わなかった。彼女の中では、既に主語は固まっているようだった。

 そしておれの中でも。おれの頭に侵入し、口を勝手に動かした人物。その人物が、堅牢強固なNODEシステムに、侵入などというわざわざ喧嘩を売るような真似をしたのではないとしたら。行き着く先は、濃川捜査官の見つめる場所と同じはずだった。

「獣がぁ……」未だ伏せたままのジェット氏が呻いた。

「ケモノ?」おれは首を捻った。

社獣しゃじゅう……」と、濃川捜査官が呟いた。

 それでも聞き覚えのないおれに、科野が言った。

「サバクタニの〈掃除人〉のことかな」

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