10−1

   10


 〈掃除人〉と聞いて、頭に被り物をしてゴム手袋を嵌め、モップの刺さったカートを押しているおばちゃんを想像したおれは甘かった。〈掃除人〉は清掃係とは違う。普通の清掃係は、会社の命を受けて一般人の自宅へ赴いたりはしない。今、おれの目の前に座っている男(ストライプ柄ダークスーツ、スキンヘッド、口髭、サングラス)は、サバクタニの清掃係ではなく〈掃除人〉なのだろう。もっとも、名刺には〈掃除人〉の文字はなく、サバクタニの社名と〈対外調整部〉という部署名が記されていた。名前は〈田中太郎〉となっているが、どうにも本名には思えなかった。

 科野の言葉が蘇った。

「会社勤めをしたことのないセンセイは知らないかもしれないけど、大企業ならどこでも社獣を飼っている。まあ、いってみれば会社の面倒事を解決するための人員だね。一応社員だけど、裏社会のニオイがプンプンする人間も少なくはない。面倒事というのは大抵が荒事に繋がるものだから、どうしてもそういう人間が必要になる。謂わば必要悪ってところかな」

「その中でも、サバクタニの社獣は仕事の質、速さ、的確さのどれをとっても優れてると言われてる。まるで雑巾で拭き取ったように汚れが綺麗になくなってることから〈掃除人〉なんて呼ばれ方もしている。拭き取る方法は様々さ。法律に則った話し合いで済むこともあれば、法を逸脱した、けれど傍目にはそれとわからないやり方で消しに掛かってくることもある。まあ、この辺りはそこの天使ちゃんの方が詳しいんだろうけど」

 〈天使ちゃん〉もとい濃川捜査官の声が続く。

「彼らは確たる証拠を残さずに、事を遂行します。限りなく黒いに近い事象でも、証拠がないために起訴できなかった事件は数えきれません。サバクタニの社獣はプロ中のプロなのです。つまり、プロの殺し屋と言っても過言ではありません」

 何週間か前に濃川捜査官が座っていたソファーに腰を下ろし、田中太郎氏は黒の革手袋がはめられた両手を組み合わせていた。

 おれはドアの方を見た。覗いていた荻原の顔が引っ込んだ。誰かがお茶を持って来る様子はなかった。エゼキエルは顔を出しさえしなかった。本能的に何か危険を察知したのだろう。とにかく、数的有利な状況でないことは確かだった。

 向かいで田中太郎氏が口を開いた。

「突然お邪魔して申し訳ありません」綺麗なバリトンボイスが響いた。「平素は弊社のNODEシステムをご利用くださり、誠にありがとうございます」

 言葉の字面の割に、相手の方が堂々としていた。むしろこちらが頭を下げてしまった。

「実は、折り入って夢野様にお願いがあり、今回はこうして伺った次第でございます」

「お願い、ですか」今すぐここで死ね、とでも言われるのだろうか。

「弊社のある人間が、どうしても夢野様のお目に掛かりたいと申しているのです」

「私に? どういった御用なのでしょう」

「それは是非、本人の口から直接お伝えしたいとのことです」

 きっとマンションの下には黒塗りのセダンが停まっているのだろう。おれはまんまとそれに乗せられ、港の人気のない倉庫街へ連れて行かれる。その後どうなるかは、わざわざ脳内で映像化するまでもなかった。

「突然押しかけてきた人間にこのようなことを言われても、戸惑われるのは当然です」と、田中太郎氏は言った。「もしご不審にお思いでしたら、弊社カスタマーサービスセンターへお問い合わせいただいて構いません」

 本人がそう言うので、その通りにさせてもらった。彼を見据えたまま視界キャプチャを撮り、画像データをネットで検索した問い合わせフォームへ、メッセージに添付して送った。botが受信完了の通知を即座に返してきた。少し間を置いてから、画像に映る人物が自社の社員であることを証明する内容のメッセージが飛んできた。社員番号202525、対外調整部、田中太郎。逃げられそうになかった。

「……わかりました」おれは、両手を挙げ降参を示すような心持ちで言った。

 マンションの前には果たして、黒塗りのセダンが停まっていた。田中太郎氏はおれを後部座席へ乗せ、自身は運転席へと回った。氏がエンジンをスタートさせると、車はベルトコンベアの上を滑るような軽やかさで走り出した。

 スモークの貼られた窓の外を、見慣れた景色が流れていった。夕暮れ時。道行く誰もが、家路に着いているのだろう。自分だけが世界から切り離された気がして、目の奥が疼いてきた。脳内通話で警察に連絡しようとも考えるが、その辺りの対策は取られているに違いなかった。

 ふと、濃川捜査官のことが頭を過ぎった。下層現実でジェット・コースケを拘束して数日が経つが、濃川捜査官からは何の連絡もなかった。取調べが順調にいっているのか、あるいはその逆なのかさえわからなかった。一言ぐらい何かあってもよさそうなものだったが、彼女にとっておれは既に用済みなのかもしれない。白状といえば白状な話だが、偽証罪が不問に処されたという開放感もあった。だがやはり、このまま何の音沙汰もないのは釈然としないというのが正直な気持ちだった。

 案の定、外部への連絡は取れないようロックが掛かっていた。先ほどメッセージを送ったばかりのサービスセンターへすら繋がらなかった。

「申し訳ありませんが」田中太郎氏が前を向いたまま言った。「本件は社内でも特別な機密事項であるため、外部との連絡はご遠慮いただいております」

 〈ご遠慮いただいて〉いるのではなく〈禁じて〉いるんじゃないか、とは思っても決して口にはしなかった。「そうですか」と、笑っておいた。

「笑うところじゃないと思うけど」隣に座る娘が言った。彼女の黒い髪が、窓の外を光が流れる度に、白く輝いては元に戻った。

「物事を円滑に進めるにはこういうのも必要なんだよ」おれは小声で言った。

「服従してるだけじゃない」

「そうしなきゃ何されるかわからないんだぞ」

 娘は口を尖らせ、黙り込んだ。ややあってから彼女は言った。

「かっこ悪いよ、お父さん」

「今はやめてくれ。心が保たない」

 娘はそれ以上、何も言って来なかった。彼女の失望を目にする前におれは瞼を閉じ、シートに身体を沈めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る