7−2

「待ってください」自分が言ったのだと認識するまで、一拍ほどの間があった。おれは口を押さえたが、濃川捜査官は既にこちらへ振り返っていた。

「何か?」

「今、お時間よろしいですか?」掌の内側から声が漏れた。

「用件があるなら手短にお願いします」

「少々込み入った話なのです」おれの口は言った。「ここではなんですから、少しお茶でもしませんか?」

 ここは強く断っておくが、彼女を誘った照れを隠したいがために〈口が勝手に動いた〉とか言ったのではない。本当に〈口が勝手に動いた〉のだ。こんなことで照れるほど純な心を持つような歳でもない。

 結果的に濃川捜査官は誘いに応じ、おれは恥を掻かずに済んだ。近くの喫茶店へ入ることになったが、おれとしてはやはり、釈然としないものが残った。これはおれの意思ではない気がしてならなかった。

 店に入る間際、おれはホログラムを今一度仰ぎ見た。砂漠谷エリがこちらへ向けて微笑んだ——そんな風に、見えた気がした。

 数分後、交差点に面した窓際の席に、おれたちは座っていた。濃川捜査官の前にはホットコーヒーが、おれの前にはアイスコーヒーのグラスが置かれた。彼女は砂糖壺を引き寄せると、小さなトングで角砂糖を摘まみ、コーヒーへ投入した。同じ動作が十二回繰り返された。彼女は喫茶店にはコーヒーしか飲み物がないと思っているのかもしれないが、余計なことは言わずにおいた。

「それで、お話しというのは」彼女は砂糖をたっぷり溶かしたコーヒーを一口啜ってから言った。「〈込み入った話〉とは、どういうことでしょうか」

「実は、先ほど編集者の脳と繋げた時に一通のメールを見つけました」相変わらず、おれが思うより先に口が動いた。まるで誰かに喋らされているようだったが、自分で喋っているという認識もあった。敢えていうなら〈喋らずにはいられない〉という感覚だろうか。頭の奥底から湧いてくる衝動を、押さえることができなかった。

「メールを?」眼鏡の奥から批難の色が飛んできた。「そんなこと、一言もおっしゃっていませんでしたよね?」

「つい言いそびれてしまって」

「それは、ジェット・コースケ氏からのものですか?」

「そうです。あ、転送するので何か端末を」

 すると彼女は掛けている眼鏡のフレームを摘まんだ。

「こちらへ。アイ・ウェアになってますので。それから、転送ではなく画像共有でお願いします。不明瞭なファイルは規則で受信できないのです」

 本当に規則か、あるいはおれを信用していないか。言われた通り、おれは脳内で開いたメールデータのビジョンを空間共有モードに切り替えた。彼女のアイ・ウェアでも閲覧可能になったはずだ。

 濃川捜査官は俯き加減で、おれには見えないメール文面を読んでいた。その間に、おれはアイスコーヒーを飲んだ。

 やがて、メールを読み終えたらしい彼女が顔を上げた。

「このメールが、あの方の脳に?」

「その一通だけ」

「他に、ジェット・コースケ氏に関する記憶は?」

「一切ありませんでした」おれは言った。それから、おれの口が続けた。「まるで消したことを示すように、そのメールだけが残っていました」

「意図的に消された記憶……」彼女は考え込んだ。「本人が? しかし、何故そんなことを? しかもメール一通だけを残して……」

「個人での記憶の完全消去は不可能ですよ」おれは言った。「そもそもNODEシステムは、記憶を残し続けておくことが目的ですからね。上書きはできても、一度作られた記憶ファイルを消すことはできません」

「本当に、一生忘れることはないのですか?」

「劣化はありますが、完璧に忘れ去るということはないですね。少なくとも、経験したこと自体はいつまでも覚えてます。誰に何を言われたとか、そういうものは特に」

 すると、濃川捜査官は言うか言うまいか迷った素振りを見せてから口を開いた。

「辛くはないのですか?」

「物心ついた頃からこうですからね。おれにとっては普通です」話が逸れた。「ともかく、NODEのユーザが個人の裁量でストレージ内の情報を好き勝手に消すことはできません。少なくとも、半月前まで仕事で携わっていた相手に関するものならまず不可能なはずです」

「記憶の消去はサーバ側で行われた――何者かの手によって」彼女はぼかした言い方をしたが、その視線の先には、はっきりと固有名詞が浮かんでいるようだった。

 おれは窓の外へ目を向けた。砂漠谷三姉妹が地上を睥睨し続けていた。

「これが、おっしゃっていた〈込み入った話〉ですか?」

「ああ、いえ」濃川捜査官へ意識を戻した。「これは話の一部です。本題は、メールそのものなのです」

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