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サイレンを鳴らして走り去る救急車を見送ると、おれたちはそのままの脚で駅へと引き返した。
「大丈夫かな、あの人? 死んだりしないかな」今さらになって、無理矢理脳を繋いだことに後悔が湧いてきた。
「仮に何かあったとしても事故です。崩れた紙束が悪いのです」
「強引ですね。いつもこんなやり方を?」
彼女は答えずに、スタスタと坂を下っていった。おれは坂の途中で歩みを止めた。ただでさえ背の低い彼女を、更に上から見下ろす格好となった。
「やっぱり、おれは抜けさせてもらえませんか」
「抜ける」濃川捜査官は繰り返した。意味がまるでわからない言葉を吟味するように。
「人を傷つけるようなことに加担はできない」
「ですから、あれは事故だと――」
「もしあの人が死んでたとしても」と、おれは言った。「同じ理屈をこねられますか?」
捜査官は溜息と共に肩を窄めた。
「男性というのは、たかだか鼻血だけでこうも不安になるものなのですね」
「たかだかって」
「初めての時に血が出ることは、特に珍しいことではありません」
傍らを背広の男が、興味津々といった様子でおれたちを眺めながら通り過ぎた。おれは顔が熱くなるのを感じた。
「我々は」と、濃川捜査官は顔色を少しも変えずに言った。「法にもとるような行いはしていません。そしてこれからも、する予定はありません」
「法律は守ったとしても、道徳を踏みにじってはいませんか?」おれは言った。「今回のこと然り。サバクタニについて調べるのは、個人の脳を覗くってことですよね。絶対的な不可侵領域である頭の中を」
「その〈道徳〉を隠れ蓑に不正が働かれているとしたら?」
冷たい刃物のような声だった。おれは答えに詰まった。彼女は続けた。
「大多数がそれを〈善きもの〉と思っているから、〈悪〉だと指摘した途端、たちまちこちらが〈悪〉のレッテルを貼られる。我々が相手にしているのは、そういう存在なのです。そもそも〈善きもの〉を〈善きもの〉たらしめる〈道徳〉自体が一方的で不公平な価値観に基づいて形成されているので、こちらとしては自分たちの行いが道徳に反していると感じることもありませんが」
彼女は向きを変え、再び坂を下り始めた。おれも惰性で彼女に続いた。
「どうしてもイヤだとおっしゃるのなら、ご辞退いただいても構いません」ただし、と濃川捜査官は言葉を継いだ。「昨日もお話しした通り、偽証罪での告訴は免れません。MINDへの影響も確実です」
脅し。これが道徳に反していないと考えるような人間と行動を共にするのはいかがなものか。だが、MINDの低下を持ち出されると、やはり強気に出ることはできなかった。ここで我を通すのは〈勇気〉ではなく、ただの〈蛮勇〉に思えてしまった。
赤いポストの隣に娘が立っていた。おれは彼女に目線で問うた。
「お父さんが決めなよ」と、娘は言った。「お父さんが決めた答えが、わたしにとっての正解だから」
「お前に言われてもなあ」
「何か言いました?」
濃川捜査官が再び見上げてきた。先ほどまでの高低差はなかった。おれたちは飯田橋の駅前に戻っていた。頭上には、相変わらず砂漠谷三姉妹のホログラム。
「では、わたしは戻って仕事がありますのでこちらで失礼します」
「ああ、はい」お茶でも一杯、という雰囲気ではなかった。
「本日はご足労いただき、ありがとうございました。今後につきましては、本日中に答えを出していただけると助かります。つまり、捜査に協力し続けるか否か」
おれは頭を掻いた。
「では」と彼女は頭を下げ、踵を返し改札へ歩いて行った。
結局、メールのことは話そびれてしまった。編集者の中に残された、ジェット氏に関する唯一のデータ。これだけでも状況としてはかなり不自然だ。濃川捜査官に話しておく必要があるのではないか。だが、どうしても彼女たちの考えに賛同するのは抵抗があった。法を執行するためなら手段を選ばないという考え方には。
おれは答えを探し、遠ざかっていく濃川捜査官の小さな背中から頭上の砂漠谷三姉妹に目を移した。NODEは人と人を繋げ、世界を一つにします。真ん中に立つ長女のエリが、下界へ向けてにこやかに呼び掛けていた。
不意に、彼女と眼が合った気がした。
いや、モナリザがどの角度からでもこちらを向いているように見えるのと同じ原理なのだろうが(ホログラムならそんなことをするのは造作もないだろう)、そういった構造的な話ではなく、もっと本質的といおうか、上手く言語化はできないが、特別な〈何か〉が感じられるような、目線の重なりだった。
気付けば既に、砂漠谷エリは別の方を向いていた。今のは気のせいだったのだろうか。検証しようとした矢先、勝手に口が動いた。
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