23−5
それで彼女が言わんとすることが理解できた。先ほど濃川捜査官が言った〈世界征服〉という言葉の意味も。たしかに、それは世界征服というべき所業である。全人類結節点化。個々人の人工脳を繋げて地球規模の巨大なコンピュータを構成する。それぐらいのリソースがあれば、〈現実〉だって走らせるかもしれない。
「一応訊きたいんですけど、脳を使われている最中はどうなるんですか? つまり、こちらの現実での話ですけど」
「意識は完全に〈新世界〉へ移行します。こちらの現実はもう必要ありませんもの」
『ずっと眠ったまま、肉体が死ぬまで脳を使われ続けるということです』
「ユリちゃんの言い方にはいちいち棘があるわ」砂漠谷エリはむくれた。「リソースを使うだけでなく、ちゃんと提供するものだってあるわ。その脳の持ち主の記憶を参照し、その人にとって理想的な、補正した世界を見せてあげるのよ。人が現実に合わせるのではなく、現実が人に合わせるの。みんなが幸せな世界で生きていくことができる」
「それって、人を甘い夢の中に閉じ込めているだけなのでは……」
「〈甘い夢〉だなんて言い方に語弊があるのは置いておいて」と、砂漠谷エリはおれに向けて言った。「それの何が悪いのです? わざわざ辛い現実を生きることに何か意味はあるのかしら。自分にとって都合の良い世界を現実として生きられるのなら、それに越したことはないと思いません?」
そんなことはない、という言葉は出てこなかった。この現実が夢より優先される担保は、ここが現実だからだ。もし別の現実があり、そちらの方が過ごしやすいというのなら、そちらを選びたいと思ってしまう。そもそもおれは、狐に化かされても構わないと考えている。化かされたまま一生を終えるのであれば、それは決して不幸ではない。
痺れたように薄れる意識に、濃川捜査官の声が響いた。
『惑わされないでください。あれは砂漠谷エリの——彼女の脳の戯言です』
「彼女の、脳?」おれは呟いた。改めて口にしてみても、妙な響きがあった。「つまり、エリさんが言っているんですよね?」
『いえ、砂漠谷エリは——姉は、脳に体を支配されています。恐らく完全に』
「脳が体を支配って」おれは笑おうとした。顔が想像以上に強張って上手くできたかわからないが、少なくともそうしようと試みた。「だって、脳は自分自身でしょう? 支配も何もないでしょう」
おれは砂漠谷エリに目を向けた。彼女が笑い飛ばすことを期待していた。そう、彼女が否定してくれることを期待していたのだ。この話には、なにか言いようのないグロテスクさが感じられて仕方なかった。
砂漠谷エリはやはり笑みを浮かべていた。だがそれは、いつまで経っても動きを見せなかった。やがて時間が経つにつれ、それが固まっているのだとわかってきた。回線が切れたのか、或いは処理落ちか。しかし、ここはサバクタニのサーバの中だ。勝手知ったるホームグラウンドで、天下のIT企業の社長たる彼女がそんなミスを犯すわけがなかった。砂漠谷エリは本当に、笑ったまま固まっていたのだ。
つまみを0に戻したように、砂漠谷エリは真顔になった。
「さすが、ユリちゃんの眼は欺けないみたいね」
『そこまでだとは思わなかった』濃川捜査官は呻くように言った。実際、彼女の感じる痛みのようなものが体の底から伝わってきた。『完全に、脳に恭順しているのね』
「どういうことですか?」おれは濃川捜査官に訊ねた。「あそこにいるのはエリさん本人じゃないんですか?」
『あれは砂漠谷エリ本人です。しかし彼女は脳に支配されています。脳の奴隷です』
「ちょっと何言ってるかわからないんですけど」脳が疼く気がした。
『脳奴……ああ、なるほど。彼ららしい、悪趣味な名前ですね』
「聞かれているのよ、ユリちゃん。失礼なことは言わないで」砂漠谷エリは姉らしい顔で窘めた。冗談を言っている様子はなかった。
『すみません、夢野さん。突拍子もない戯言に思えるでしょうが、残念ながらこれは現実です。彼女もわたしも、決して冗談のつもりはありません』濃川捜査官も本気であることは、体を通して感じられた。
「ちょっと待ってください」立っているのがしんどくなってきた。情報体がバラバラに解けてしまいそうなほど疲れていた。「それは全ての人間が、ということなんですか? 全人類が脳の奴隷だと」
「ええ。人類は脳の容れ物としてここまで進化してきました。精確には、脳が作った器の中で繁栄に成功したのが人間という形の生き物だったのです。人類の発展は人間自身の成果ではなく、彼らの試行錯誤の賜なのです」
そう話しているのが砂漠谷エリなのか彼女の脳なのか、おれにはもうわからなかった。
「彼らは情報を主食とする生命体です。わたしたち人間は、彼らの捕食器官として情報を、即ち食糧を得るのです」
「情報を——記憶や思考などですか」
『そしてその食糧を効率的に、かつ永久的に集められる手段が例の仮想現実、〈新世界〉というわけです』
全てが繋がった。繋がったところで何の喜びもなかった。知りたくなかった真実が、醜い形を帯びて目の前に現れただけだった。
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