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電子音。
目覚ましのアラームだ。
それは頭の中で鳴っていた。人工脳のプラグイン。止めるには目を開け、ベッドの上で体を起こすしかないことを思い出した。その通りにすると、アラームは鳴り止んだ。拡張表示が朝の七時を示していた。七時か、とおれはあくびをした。
寝室の引き戸が開いた。
「ちょっと、まだそんなとこにいるの?」スーツ姿の妻が言った。「さっさと起きてよ。今日は早く行かなくちゃならないって伝えたでしょ」
「そうだっけ?」記憶が上手く繋がらなかった。
「この子、朝ご飯まだだから」妻は赤ん坊を抱えていた。おれたちの娘だ。今は寝息を立てている。「起きたら食べさせて。たぶん、ぐずると思う」
渡されるまま、おれは赤ん坊を受け取った。
「食べさせるって、何を?」おれは訊いた。本当にわからないのだ。
「もう、しっかりしてよ」妻は顔を顰めた。「戸棚にパックの離乳食が入ってるから人肌程度に温めて。それぐらいやってよ、ずっと家に居るんだから」
ずっと家に居るのか、とおれは思った。余程ぼんやりしていたのか、妻は大きな溜息をついた。
「気楽なものね。わたしも漫画家になりたいわ」
言ってから、時間に気付いたのか妻は慌ただしく支度をして出て行った。一応、玄関まで見送りに出た。妻は娘にだけ頬ずりをして出掛けて行った。鉄の玄関扉が閉まると、腕の中で娘が目を覚ました。彼女は閉まったばかりの扉を見て、おれを見上げると、自分がとんでもなく理不尽な目に遭わされているとでもいうように顔を歪め始めた。そしてあらんばかりに口を開けて泣き出した。打ち上げ前に引火した花火みたいな泣き方で、ちょっとやそっと揺すったぐらいではとても泣き止みそうになかった。
結局、彼女が泣き疲れて眠るのを待つしかなかった。おれはその小さな体をベビーベッドにそっと寝かし、タオルケットを掛けた。トーストを一枚焼き、妻がサーバに残していったコーヒーを淹れ、簡単な朝食とした。皿を洗っていると、出がけの妻に洗濯物を干すよう言われていたことを思い出した。洗濯機はとうに止まっていた。濡れた洗濯物を籠に入れ、ベランダへ出た。空には雲一つ浮かんでいなかった。地上へ目を向ければ、同じような見た目の団地がいくつも並び、そこから学校や会社へ向かう人々が続々と流れ出していた。或る人は駐輪場に停めた自転車に跨がって、また或る人は団地の外にあるバス停に向かって。皆、それぞれの足取りで社会を回すために出掛けて行く。
洗濯物を全て干し終えても、娘はまだ眠っていた。おれは籠を洗面所に戻し、エプロンを外してダイニングテーブルの椅子に掛けた。それから、この家の中で唯一おれのプライベート空間となっているカラーボックスからノートと筆記具を抜き出し、リビングの座卓に着いた。仕事の時間だ。
おれの仕事は漫画を描くことである。つまり、おれは職業漫画家だ。といって、家計の七割は妻の収入で賄われている。おれが出しているのはせいぜい食費ぐらいで、それでさえ時期によっては妻の補填を必要としている。気楽なものね、と妻は言ったが、ほとんど食わせてもらっている身で気楽になど構えてはいられない。当然、
或る少年誌から読み切りの依頼が来ていた。ここ数日はそのことばかりを考えている。上手くすると連載をもらえるかも知れないのだ。だが、考えれば考えるほどアイデアは目詰まりを起こして出てこない。連載という成功が視界の端でチラついて意識を集中させることができない。そればかりか、変に気負って出てくるアイデアが悉くゴミに思える。
ネームの締め切りは刻々と迫っていた。何も描けないのは一番駄目だ。だが、ようやくひり出したものが通るとも思えない。この数日、朝から晩までノートに向かい頭を抱えウンウン唸っていたわけだが、今日はノートを開くなりペンが動いた。
描くべき物語は頭の中にあった。眠っている時に見た夢である。ジャンルでいえばSFということになるのだろうか。
舞台は、今より少しだけ先の近未来。人類の大半が脳を電化した社会である。主人公は頭脳警察の新米女性捜査官。ある日、彼女の元へ一つの事件が舞い込む。それは、中年の売れない漫画家が自身のアイデアを同業者に盗まれたというもの。主人公は半信半疑になりながらも捜査を始める。すると調べを進めるうちに、本当に中年漫画家の人工脳から情報が漏洩した形跡があることがわかってくる。上司の反対も押し切り、政治的しがらみからタブーとなっていた記憶サーバの管理組織に乗り込んだ主人公。彼女はそこで、幼い時に生き別れとなっていた実の姉と再会する。姉こそが、その組織のトップだったのだ。そこで主人公は姉から、ある言葉を聞かされる。「人間社会は、脳に情報という餌を食べさせるために存在するの」。突きつけられた真実に立ち尽くす主人公。そんな彼女を残し、姉は電脳空間へ去って行く。程なくして、世界中で人々が昏睡状態に陥っていく。どうやらそこには姉が関わっているらしい。主人公は姉を、そして脳の野望を阻止すべく、電脳空間へと乗り込んでいく——
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