26−4

 準備に小一時間掛かるというので、おれたちは院内で適当に時間を潰すように言われた。といって、これからすること以上に何かしなければならないことはなく、待合室にあったオンデマンド印刷の古い写真週刊誌をパラパラと捲るぐらいであった。濃川捜査官はそれにすら手を付けず、ベンチに背筋を伸ばして座ったまま眼を瞑っていた。眠っているにしては隙がなかった。

「夢野さん」

 雑誌が広告ばかりのページに達した頃、濃川捜査官の声がした。彼女の方を見ると、閉じられていた瞼が開いていた。彼女はこちらではなく、正面を見据えたまま続けた。

「巻き込んでしまって申し訳ありません。今回のことだけではなく、最初から」

「ジェット・コースケのことから?」

「そのもっと前です。祖父が全脳摘出を行った時から、夢野さんは巻き込まれていたと言っても過言ではありません。祖父に代わり謝罪します。もちろん、わたしが頭を下げて済む話ではありませんが」

 おれは雑誌を置いた。

「たしかに、巻き込まれた云々でいえば、こうなる運命だったところを見ると、人生単位で巻き込まれたといえるだろうね。けどそれは濃川さんが謝るようなことではないですよ。全脳摘出を選んだのはうちの両親ですし」

「しかしそれも、祖父に命じられた父たちが言葉巧みにご両親を説得してのことです」

「それもあったかもしれない。けど、それは一部だと思います。きっかけではあったかもしれないが、理由ではない。おれの両親はそういう人たちですよ」話ながら両親に関する記憶を検索するが、節目節目の記念写真を除いてはめぼしいものは出てこなかった。消したつもりはなかったので、自動整理されたのだろう。おれにとって両親との記憶はそういった類いのものだった。

「どうかご両親を恨まないでください」

 視界の端に白いものが見えた。濃川捜査官の小さな手が、彼女の膝の上で握られていた。固く握っているのか、拳は小さく震えていた。

「きっと、夢野さんを大切に思ってのご決断です」

 彼女の右手で、粒のような光が揺れていた。指輪が蛍光灯の光を反射していた。おれはそこから目を離し、正面の、塗料が剥げかけた壁に目を向けた。

「そうだといいけど」おれは言った。「まあ、こんな体験滅多にできないですからね。貴重な取材の機会を得られたとでも思うことにしますよ。帰ってきたらこのことを題材に漫画を描きます」

「エッチな漫画ですか?」

「いや、普通の。濃川さん誤解しているようだけど、おれ元々普通の漫画家ですから。エロ漫画は稼ぐために仕方なく描いてただけ——」言いながら、自分の中で何かが萎んでいく感覚があった。「売れるために少しぐらいそっちの要素入れるかも」

「検閲はわたしが行います」彼女は捜査官として言った。「機密情報如何ではなく、わたし個人の名誉のために」

「さすがに濃川さんモデルにして変なことは描きませんよ」漫画とはいえ未成年者に見えるキャラクターに性的要素を含むと条例に引っ掛かる、とは言わないでおいた。

「それでも、世に出る前にまずわたしが読ませてもらいます」

 診察室のドアが開き、科野が顔を覗かせた。

「お待たせ。こっちはいつでもいいよ」

 濃川捜査官が腰を上げた。おれも続いて立ち上がった。診察室の戸を潜る間際、濃川捜査官はこちらを振り向いた。

「漫画、楽しみにしてます」

 おれが頷いた時、彼女はもう前を向いていた。その顔に笑みが浮かんでいたかどうか、確かめる術はなかった。

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