21−3

 シミュレーションは何度も行われ、改良が繰り返された。成功率は右肩上がりで上がっていき、成長曲線は天井を打つようになった。だが、科野の環境では限界があった。サバクタニ側の動きを完璧に再現するためには、サバクタニと同等の開発環境がなければ無理だ。そんなものは、並の企業にだってありはしない。いくら有能とはいえ一介の闇医者では用意するのはとても無理で、違法に世界中の端末の空き要領を間借りしても、本番同様といえるテストは行うことができなかった。理論的には侵入できる。これが、科野がおれたちを安心させられる最大限の言葉だった。

 最終調整にはまだ時間が掛かるというので、おれは一度寝床であるアパートへ戻ることにした。社獣が待ち構えているかもしれないと、濃川捜査官もついてきた。

 病院を出た途端、情報量に目眩がした。ネットワーク接続が復旧したことで、下層現実が本来の姿を取り戻したのだ。おれは霧の中を手探りで進むように、殺風景だった時に見ていた景色を思い出しながら、どうにかアパートに辿り着いた。

 部屋にはわざわざ持ち出さなければならない荷物などはなかったが、タケさんから依頼を受けていた描きかけの原稿が残っていた。濃川捜査官に断ったうえで、おれはそれを描き上げた。女性を外で待たせながらエロ漫画を描くというのは何とも言えない背徳感があった。

 世話になった挨拶も兼ねてタケさんに渡そうと思ったが、復活したエアタグの群れは再び住人たちを覆っていて、誰が誰だか見分けがつかなかった。本人が設定をオフにしているのか、そもそも設定のことなど知らずにいるのか、不可視化の制御もこちらからはできなかった。何事か言っているようだったが、言語の判別もマスキングされてしまって聞き取れなかった。「おれたちは心が通じ合ってるからわかるはず」と、タケさんが言いそうなことを胸に抱きながら、おれはこの人はと思う一人に原稿の束を渡した。それから住人たちへの礼を述べた。エアタグのおばけのようなその人物は原稿を受け取り、何事か言っていた。「頑張れよ」とでも言われたのだと思うことにした。

 病院に戻る道すがら、おれは濃川捜査官に訊ねた。

「ところで、記憶が戻ったことで一つ疑問が浮かんだんですけど」

「何でしょう?」

「おれが頭脳警察の庁舎から逃げる時、他の電化した人たちがおれを認識できなくなったのはわかります。でも、濃川さんの脳は非電化ですよね。おれを見失うことはない筈だ」

 彼女は黙って聞いていた。

「もしかして、わざとおれを逃がしてくれたとか?」

 目の前に外国語の仮想表示が迫ってきて、おれはつい体を避けた。もちろんぶつかったところで物理干渉はしない。

「だとしたら、わたしも頭脳警察から追われなければなりませんね」濃川捜査官は言った。「夢野さんと同じです」

 おれは彼女を見た。彼女は前を向いたままだった。おれは以前、馬橋に言われた言葉を思い出した。彼は濃川捜査官が組織とは関係なく動いている可能性を指摘していた。

「まず、わたしは正真正銘頭脳警察所属の刑事ですので、そこはご安心ください」彼女は言った。「それから夢野さんの逃亡の件に関しても、わたしが非電化だということは組織も知っています。見逃したとなれば、すぐにその嫌疑を掛けられます」

「それもそうか」

「強いて言えば、わたしが組織内の情報を書き換えた可能性もありますが」

「どっちなんですか?」

「すみません。ついからかってしまいました」彼女は何でもないように言った。

「やめてくださいよ。濃川さんが言うと冗談に聞こえないんだから」

「あの時は、恐らく人工脳の認識系だけでなく、庁舎のシステムを通して物理視界も影響を受けていたと考えられます。丁度この下層現実が通常ネットワークからはマスキングされているように」

消滅現実DRですか」

「恐らくは」

「でも、見えなくなっただけでなく、おれの存在すら忘れてましたよね?」

「それもDRがもたらす一種の催眠状態です。下層現実の存在すら誰も気付かないのと同じことです」

 確かに、筋は通っていた。

「疑問は晴れましたか?」

「ええ」だが、何かがまだ引っ掛かっていた。全ての真実を聞いていないような、靄のような感覚が残っていた。それは彼女が頭脳警察という、いざとなったらどんな手段にも打って出るような組織に属しているせいなのかもしれなかった。

 科野から着信が入った。侵入プログラムの準備が整ったとのことだった。おれたちは足を速めた。

「夢野さん、これだけは信じていただきたいのですが」

 おれは隣を歩く彼女を見た。

「わたしは、夢野さんを騙すようなことはしません。少なくともそれだけは、お約束することができます」

「わかりました」と、おれは言った。「少なくともそれだけは信じます」

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