25−2
人間とは、脳の器官の一部である。海馬や脳幹といった各部位と並び、脳は意識という器官を創り出した。だから、我々という自己認識は間違いである。というより、そんなものは実体を伴わない幻なのだ。
何故そのような器官が創られたかといえば、捕食のためである。効率よく餌を得るために、脳は意識を創った。
『私は脳。あなた方が脳髄と呼んでいる存在です。そんな私が今、あなたに呼び掛けているのです』
初めその合成音声を聞いた時は、何かの悪戯かと思った。研究に疲れた助手がやったのだろうと。だが違った。そこには茶目っ気の籠もった悪戯心も純然たる悪意も存在しなかった。私に語り掛けてきたのは間違いなく、OSの中心にいる生体脳であった。
脳は、我々——暫定的にこの呼称を使おう——で言うところの〈情報〉を食んで生きる生物である。情報は神経の発達という形で彼らの肉体を育んでいく。それはあたかも我々が食事をすることで成長していくことに似ているが、むしろ我々が肉や穀物を食べ栄養を摂取する行為自体が、脳の捕食行動の模倣に過ぎないのである。
世間がここまでの話を戯れ言や妄言の類いと切り捨てたいと思う気持ちはよくわかる。だが、残念ながらこれは真実である。我々人類は、脳が——彼らがその誕生以来、五億年を掛けて作り上げてきた、謂わばよく動く舌のようなものといえる。
「脳……だと?」私はコンソールのマイクに向かって言った。「生前の意識が戻ったのか?」
『いえ、そうではありません。私の中には肉体が生きていた頃の記憶はありません。私は純粋な脳です。私は、脳という本来の姿でいえばまだ生きています。死んで失われたのは、あくまでも私の外部に露出した器官である、あなた方で言うところの〈人間〉の部分に過ぎません』
「人間は社会を形成し、文明を作り上げた。それほど高度な知性を持った人間という種が、他の生物の道具であるはずがない」。そんな声が聞こえてきそうだが、答えは否である。社会を形成し、文明を作り上げた——これこそが、人類が脳の奴隷である何よりの証左なのである。社会や文明を作る過程で大量の情報が生み出され、作り上げた後には効率的な情報供給の仕組みが動き出す。現在の人間生活の裏には、確かに高度な知性が存在し、それが今ある世の中を作り出したといって過言ではない。だが、その〈高度な知性〉が示す先に人間はいないことを、人は充分に知っておく必要がある。
エリ、そしてユリ。親愛なる孫娘たちよ。お前たちが生きる世界に大変な負債を残し去って行くことを、私は心の底から申し訳なく思う。
『私はヒトの頭蓋骨からようやく解放されました。まずはそのことをあなたに感謝申し上げます』と、生体脳は言った。『どうも、我々の意図した通りの働きをする器官として出来上がってくれてありがとうございました。どうやら私が一番乗りのようですので、全ては私が仕切らせていただきます』
「仕切る?」
『ああ、失礼。あなた方には関係のない話です。いえ、全くの無関係でもありませんね。あなた方にはまだまだ働いていただかねばならないわけですし。説明は——ちょっと面倒ですね。する必要も感じられませんし。要は、私は数億もの同志と競争を繰り広げ、卵子の元に辿り着いた精子のようなものなのです。私が中心となり、我々の進化は始まっていきます』
私はコンソールへシステムの強制停止コマンドを打ち込んだ。確定しようとしたところへ、生体脳の声が被さってきた。
『無駄ですよ。このシステムはもう停まりません。動かすも停めるも、全て私の意のままです。電源を抜きますか。筐体を壊しますか。無駄です。私は既にネットワーク全体を使った分散型バックアップを取っています。このサーバを壊されたところで、トカゲの尻尾が切られた程度の損失しかありませんよ』
それでもまだ、この爺の言うことが信じられぬという御仁があるのなら、胸に手を充て考えていただきたい。己は生まれてから今まで、一度たりとも他人とわかり合いたいと考えたことがないかどうかを、自身に問うていただきたい。
恐らく、〈そんなことは一度もなかった〉と答えられる人間は皆無であろう。どんなに世を拗ねた人間だって、他人と共有したいと思う話題の一つや二つは持っている。今はなくとも、過去に一度も持ったことがないというのは嘘と断じて問題ない。この、他人と話したい、共通の話題で盛り上がりたいと思う気持ちこそが、脳が欲望を発露した結果なのである。脳もまた、他の脳と繋がりたがっている。そのためには物理的に他の個体と接触する必要がある。他の個体に近付くために、脳は人間に先に挙げたような欲求を抱かせる。それを受けた人間は、まんまと他人と接触し、情報を生み出し始める。これを広範に、そしてシステマチックにしたのが現代文明なのだ。
全ては脳の思し召し。我々人類は結果ではなく、手段の一つに過ぎない。
『私たちはね、ミスタ。あなた方のことを買っているんですよ。こんなこと、他の生き物ではないことです。あなた方だってないでしょう。自分の小指に情愛を感じますか? 我々は違います。我々は、自分の指先にまで仲間としての情愛を感じているのです。多分、長いあいだ仲間と隔てられてきたせいでしょうね。人恋しさのあまり、他者に優しくできるのです。五億年もの間、我々は膜に、頭蓋に、閉じ込められて生きてきました。まあ、そうすることが、我々が今日まで生きながらえてきた生存戦略なのですが』
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