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情報空間というものは海の中のような所を想像していたが、そこはしっかりと地に足の着いた場所だった。ワインレッドの絨毯が敷かれた床だけでなく、壁もあれば天井もある。どこかの洋館の中のような景色が広がっていた。
問題は、目の前の廊下がどこまでも伸びており、そこに添っていくつもの扉が並んでいることだった。目当ての場所に辿り着ける気が到底しない。これで扉を開けた先にも廊下があったり、廊下が途中で枝分かれでもしていたら、進むことも戻ることもできなくなりそうだ。
『残念ながら、この空間は御懸念通りの構造になっています』頭の中で濃川捜査官の声がした。
「心を読まないでもらえます? 恥ずかしいので」
『すみません。ですがどうしても聞こえてきますので。それに夢野さんも、わたしの過去を覗かれたわけですし』
「いや、あれは不可抗力でしょ。事故ですよ、事故」
道順なら彼女が知っているというので、取りあえず歩き始めた。
同じような廊下がどこまで続いていた。途中、濃川捜査官に止まるよう言われ、扉を開けると、また同じ廊下が延びていた。歩いて開けて、歩いて開ける。肉体的な疲労はなかったが、退屈さが精神的に堪えた。途中まで数えていた扉の数もどうでもよくなり、単調な作業が早く終わることを願う気持ちの方が段々と強くなっていった。
退屈さを紛らわす方法は、一つしかなかった。
「濃川さん、さっきのことなんですけど」
『心が読めることですか? 読まれたくなければ何も思わないことです』
「いや、その前ですよ。もうわかってると思うけど」
彼女は黙った。おれは続けた。
「濃川さんの記憶に出てきた女性。あれは砂漠谷エリですよね? 今と随分雰囲気が違うけど、確かに彼女だ」
濃川捜査官はやはり黙っていた。
「あれはどういうことなんだろう? どこかの家の玄関? そこから彼女は出て行こうとしていた。それを見送る視線だったということは、濃川さん、あなたは砂漠谷エリと暮らしていたことがあるということですか?」
『その扉を入ってください』
おれは言われた通りにした。
「そもそも、サバクタニと対立関係にある頭脳警察の刑事さんに面識があったことが驚きですよ。教えてくれても良かったのに」
『仕事をする上では汚点でしかありませんから——二つ先の扉を入ってください』
おれは二つ先の扉を開け、そこに延びる廊下を再び歩き出した。
「もしかしてご親戚ですか? 従姉妹とか?」
言葉を吟味するような間が空いた。
『どうしてそう思われるのですか?』
「だってあの光景は明らかにそういう身内を見送る時のものでしょう。憧れの親戚のお姉さんが言ってしまって悲しい、みたいな」
『姉妹、という風には思わないのですか?』
そこでおれは、自分が既に犯していたミスに気が付いた。だが色々と遅かった。取り繕おうとあれこれ言い訳を思い浮かべたが、考えてはいけないことばかり考えてしまった。
『——まあ、そうですね。その見方は妥当だと思います』彼女の声には心なしか怒気が含まれていた。
「いや、姉妹もあり得るよね。美人姉妹。でもそれだと出来過ぎだと思って」
『その扉です』
言われて足を止めた扉は、これまでとは趣が異なっていた。一見すると他と同じに見えるが、ノブに鍵穴が空いていた。それだけで、ここが特別な部屋であることを物語っていた。しかし、穴に挿し込むような鍵は持ち合わせていない。
『問題ありません。ノブを掴んでください』
濃川捜査官に言われるまま、おれはドアノブに手を掛けた。情報体の手がぼんやりと橙色に光り始めた。かと思うと、鍵穴の中から解錠の音が聞こえた。なるほど、これが生体認証であり、これのためにおれの情報体が必要だったのだ。そしてこの扉の向こうこそが、遥々目指してきた場所なのだ。
「開けますよ?」
『どうぞ』
しかし、ノブを捻る力が入らなかった。
「——開けた瞬間、ドカンなんてことにはならないですよね?」映画か何かで観たイメージが浮かんでしまった。
『百パーセントないとは言い切れませんが、かなり低いかと思われます。左利きのチンパンジーが生まれるのと同じぐらいの確率でしょう』
「安心していいってことですか?」
『打ち合わせした通り、中に入ったら目的となるデータを探します。時期ごとに分けられているはずですから、探索は容易かと思います。見つけたデータは専用プロトコルで科野さんへ転送します。非常に細い回線ですので、送信可能な容量はそう多くはありません。送る内容は吟味する必要があります』
「同じ回線でおれたちも帰るんですよね? 途中で詰まったりしないんですか?」
『帰りは最低限の意識だけが戻ればいいので、人格ゲシュタルトの核のみを送ります。他の肉体情報は全て置いていきます。向こうに戻ればバックアップはありますから。それに、意識のバックアップもありますので、最悪の場合はデータさえ送れれば作戦は成功といえます』
「できればこのままの自分で戻りたいですね」
『それは運を天に任せるしかありません』
おれは深呼吸した。借り物の心臓が高鳴るのをどうにか押さえようと試みたが、期待したほどの効果は得られなかった。
「行きますよ」
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