22−3

 眼を瞑り、心を無にするように、と彼女は言った。おれは言われた通り目を閉じた。だが、心を無にすることなど到底できなかった。

「大丈夫、落ち着いてください」濃川捜査官の声がすぐ耳元で聞こえた。どうやったのか、いつの間にか傍まで近付いて来たようだ。「なるべく痛くはしませんから」

「痛いの?」

「抵抗すると痛みます。だからどうか力を抜いてください。ゆっくりと、深呼吸をしてください」

 濃川捜査官の囁きは、山火事に降り注ぐ雨を思わせた。雨はゆっくりと静かに、しかし確かに、燃えさかっていた森を鎮めていく。おれは閉じた瞼の裏に、そんな光景を思い描いていた。

 やがて、口を何かに塞がれた。生暖かい、濡れた何かに。目を開いて確認しようとしたが、瞼は縫い付けられたように動かなかった。滑りを帯びた物体が、口の中に押し込まれてきた。おれは歯や舌を使って抵抗するが、それらを押し退け侵入してくる。その物体は、舌の根まで辿り着き、通過し、喉の奥へと滑り込んでいく。

 あが、と声ともいえない音が出た。おれは鼻孔を最大限に広げ、どうにか呼吸の確保に努めた。開かない瞼の僅かな間から涙が溢れた。侵入は続いている。飲み下そうとしても、物体はあまりに長く、終わりがない。喉の内壁を擦られ、吐き気が止め処なく込み上げてくるが、えづくことは許されない。おれは口の端から涎を垂らし、他の穴という穴からも色々な体液を流し続ける。

「大丈夫、あと少しです」濃川捜査官の声は遥か天上の、その更に向こうの宇宙の果てから響いてくるようだった。

 意識が、両端を掴んで引っ張られたように遠のいた。昔の写真をスライドで見せられるように、いくつかの景色が目の前を過ぎていった。小学生の頃の記憶。高校の頃の記憶。漫画家になった頃の記憶。娘が生まれた時の記憶。それらが何度も繰り返される。そのうちに、見覚えのないものも混じり始める。家族の記念写真。紙の本で埋め尽くされた書斎。誰かの手によって薬指に嵌められる指輪。玄関を出て行こうとする女の後ろ姿。これはおれのものではない。別の誰かの——濃川捜査官の記憶だ。

 場面の切り替わりが止まった。玄関の光景が、映像として再生される。コートを着た髪の長い女が靴を履いている。傍らにはトランク。靴を履き終えた彼女は、それを提げ、扉を開ける。真っ白な外光が挿し込んでくる。出て行く間際、女が肩越しにこちらを振り返る。彼女はおれの知っている女だ。砂漠谷エリ。

 目を細め、彼女は扉の外へ出て行く。真っ白な光の中へ溶けていく。おれはその姿をただ見つめている。胸の中には言いようのない哀しみが渦巻いている。だが、この感情はおれのものではない。濃川捜査官のものだ。

 気付けば侵入は終わっていた。おれは口の端から涎を垂らしたまま、濃紺の空間に仰向けになっていた。

 涎を拭ってから、そうする手があることを知った。体を起こすこともできた。おれには体が存在した。隣を見ると、そこには誰もいなかった。誰かがいた痕跡もなかった。辺りを見回しても、おれは一人だった。

『統合は完了しました』頭の中から声がした。濃川捜査官の声だ。『苦しめてしまったのならすみません』

「いや、大丈夫」おれは言った。「それよりも濃川さん。あなたは……」

『時間がありません』振り上げた斧を下ろすように彼女は言った。『先を急ぎましょう』

 それ以上、何かを問うことは許されなかった。

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