23−2
今度こそ、ドアノブを捻った。ドアは内側へ向かって開いた。その瞬間、目の前が閃光に包まれる——などということはなかった。咄嗟に瞑った目を開くと、中には部屋があった。広さは十畳ほどだろうか。天井からは、これまで廊下にあったものと同じ種類の電灯が下がっていた。その仄かな灯に照らされた室内には窓はなく、三面の壁には金属でできた正方形の抽斗が、隙間なく並んでいた。紙で利用者を管理していた大昔の図書館か、現金を店内に置いていた大昔の銀行の金庫を思わせる場所だった。
濃川捜査官の言った通り、抽斗には日付と思しき数字の書かれたラベルが貼られていた。おれは該当の年月日を探した。抽斗の日付は、部屋に入って左手から右手に向かって新しくなっていった。最も左側にあるのは、おれが生まれた日の記憶ということになる。
「この部屋全てが、おれが人生で持つ記憶の総量なんですね」目的の抽斗を探しながら、おれは言った。「寿命を知らされた気分ですよ」
『この部屋の抽斗が全て埋まることは滅多にありません。長らく参照のない記憶などは整理されるよう、アルゴリズムが組んでありますので』
「それって、サバクタニ側でデータ改ざんができるということなのでは?」
『整理はあくまでプログラムによって機械的に行われます。この領域はサバクタニのエンジニアにも触れることはできません。それに整理対象となるデータは数十年単位で参照されていない、容量の少ない些末な記憶です。直近の記憶データが消されるようなことはありません』
「今更だけど濃川さん、NODE使ってないのに仕組みとか詳しいですね」
『敵を崩すには、まず敵を知る必要がありますから』
「敵、ですか」
「随分寂しいことを言うのね」
突然聞こえた濃川捜査官とは違う女性の声に、おれの情報体は硬直した。いや、固まったのはおれの意識だけだった。ほとんどが濃川捜査官で構成された体の方は機敏に動き、すぐに警戒態勢をとることができた。
振り向くと、開けっぱなしにしていた入り口に人影があった。すらりと背の高い、女神を模した彫像のようなシルエットである。砂漠谷エリ。対面した記憶はないが、メディアや街頭で目にした記憶は残っている。それらと同じ姿で、彼女はそこに立っていた。纏ったドレスはそれ自体が発光しているのか、ミラーボールのように断続的に光を帯びていた。情報空間とはいえ直接目にするその姿は、呼吸を忘れるほど美しかった。或いは、息が止まったのは別の理由もあったかもしれない。
彼女は暗がりでも光を帯びた唇を曲げ、妖しい笑みを浮かべたまま入室してきた。後ろ手で扉が閉められた。閉じ込められた、とおれは頭の中で呟いた。
「お久しぶり」長い睫の奥から、艶やかな瞳を真っ直ぐに向けられた。「といっても、覚えていらっしゃらないのよね」
砂漠谷エリは踵の高い靴を鳴らしながら、数歩で距離を詰めてきた。おれは避けることも飛び退くこともできずに、接近を許してしまった。程なくして、彼女はおれの間合いに入ってきた。鼻先が触れそうなほど、顔を近付けてきた。
「だからここまでやって来た」
温かな吐息が首に当たった。それから鼻孔をくすぐる花の香り。種類はわからないが、嗅いでいると意識がぼんやりした。そのまま解けて霧散してしまいそうだった。
『ダメです、夢野さん。臭覚を切って』
濃川捜査官の声にハッとして、臭いを感知する感覚パラメータをオフにした。
「あら残念。せっかく気持ちよくいかせてあげようと思ったのに」
『離れてください』
言われて慌てて後退した。だが、すぐに後ろの壁に行き当たった。
「そんなに警戒しなくてもいいんじゃなくて?」
『やはり待ち伏せされていました』濃川捜査官が囁いた。『我々を——というより、夢野さんを捕らえるか消すつもりです』
「消すだなんてそんな。人聞きの悪い」
「濃川さんの声、聞かれてますよ」
「ええ、ずっと聞こえているわ。聞こえているし、見えている」砂漠谷エリはおれの方を見ながら、しかしおれを見てはいなかった。「お帰りなさい、ユリちゃん」
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