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編集部に電話を掛けたが、校了明けとあってか担当編集は不在だった。どこかで泥のように眠っているのだろう。
代わりに電話口へ出てきた別の編集者に、例の漫画が掲載されている雑誌とコンタクトを取りたい旨を伝えると、「まさか移籍ですか?」の一言もなく連絡先を教えてくれた。おれ程度の職業漫画家はこの世に掃いて捨てるほどいるので、そのうちの一匹がどんな動きを見せようがいちいち気にしないことにしているかもしれない。
おれは礼を言って電話を切り、聞いたばかりの番号に掛け直した。電話はすぐに繋がり、先ほどの編集者と同じような声が応対に出た。
こちらの素性を伝え、ぜひあの漫画を描いた人に会いたいと言うと、相手はおれの言うことを疑いもせず、呆気ないほど簡単にその漫画家の連絡先と居場所を喋った。やはり彼も、というよりこの編集部でも、漫画家の地位は相当に低いようだった。一介の漫画家に関する個人情報などというものは、ポストに入ってくるチラシ程度にしか思われていないのかもしれない。
だが、そのお陰で目的の人物に辿り着けたのもまた事実だった。おれはすぐに身支度を調え、マンションを出た。アポイントメントを取るのが筋だとはわかっていたが、事が事だけに逃げられる可能性を考慮した。大体、筋云々でいえば相手の方が既に守っていないのだ。
聞き出した住所は新高円寺と、意外に近かった。おれの最寄りの西新宿からだと二つ隣の駅である。新宿方面に行くのではないから、
新高円寺の駅を出たところで地図アプリを立ち上げ、視界の端に住所までの道のりを表示させた。加えて娘が先導に立った。おれたちは甲州街道を荻窪方面へ進み、途中の交差点を南へ折れた。いくつか信号を通り過ぎ、更に何度か右折と左折を繰り返した。曲がる度に道は細くなっていき、周りの建物も背の低い民家へと変わっていった。
「この辺のはずなんだが……」
「あ、あれじゃない?」
娘が指した先には古い二階建ての木造アパートが建っていた。建物名を照合すると、たしかに目的の〈
「トキワ荘だって」
「漫画家が住むにはうってつけだな」おれは言いながら、黒い塗装の剥げかけた階段を上っていった。足音が安い金属音に変換され、間抜けに響いた。
建物の大きさの割に部屋数が多かった。これでは中はだいぶ狭いだろう。こんなところに住まなければならないランクということは、まだ駆け出しか、あるいは相当ネタに困って食い詰めた中堅の漫画家なのかもしれない。
やがて〈204〉と札に書かれた扉の前に辿り着いた。電子錠はなく、ノブに物理鍵を挿して回す、昔ながらの形式の扉だ。その気になれば蹴破ることができそうだった。無論、そんなことをするつもりはなかったが。
中の音に耳を澄ませながらおれは二度、扉をノックした。反応はなかった。もう一度、今度は少し大きめにノックしてみた。やはり、反応はなかった。
「いないのかな」娘が言った。
薄そうな扉だった。向こうに気配や物音があればわかりそうなものだが、そうしたものは一切感じられなかった。本当に留守なのかもしれない。おれは溜息をついた。
「出直そう」
「鍵、掛かってないかも」
「勝手に入るわけにはいかんだろう」
「ここまで来たのに?」
「不法侵入だ」
「気付かれないようにすれば大丈夫だよ。何か盗むわけじゃないんだし」
「捕まったら
「わたしはどこへも行かないよ」そう言って、娘が見つめてきた。
しばらく見つめ合ってから、おれは頭を掻いた。彼女の眼差しに抗う術を、おれは持っていなかった。
丸いノブを握り、回してみた。鍵の掛かっている手応えはなかった。そのまま引いてみると、扉は簡単に開いてしまった。
部屋の主は、やはり不在だった。風呂場に籠もっている様子もなかった。
室内は正方形で、広さは四畳半といったところだった。正面に窓があり、その手前に文机と座椅子が置かれていた。両側の壁にはそれぞれ本棚と冷蔵庫があり、ただでさえ狭い部屋を一層小さくしていた。全体的に物が多く、畳敷きと思しき床は所々に空いた隙間から覗いているだけだった。
「お邪魔します」おれは呟くように一応言って、靴を脱いだ。床に置かれた物を蹴飛ばさぬよう注意しながら、部屋の中を進んだ。そうはいっても、三歩で奥まで辿り着く程度の広さなのだが。
机の上には辞書や本が山と積まれていて、それらを無理矢理どかして確保したようなスペースに紙の束が置いてあった。その傍の皿にはGペンやカブラペンが並び、インクの瓶もあった。雲形定規や羽ぼうきも。たしかに漫画家の机だと思わせる眺めだった。
「それ、漫画の原稿かな」娘が後ろから覗き込んできた。彼女が言ったのは机の紙束のことだ。「見てみる?」
「さすがに、世に出る前の原稿を覗き見るってのはなあ」
「またお父さんのアイデアが使われてるかもしれないよ」
おれは咳払いし、辺りを見回してから紙束を取った。捲ってみると、中はまだ鉛筆書きのネームであった。絵は最低限のシルエットだけだが、台詞や文章は書き込まれているのでストーリーは判別できた。
紙を繰る手が、徐々に早くなっていった。漫画の内容に引き込まれたわけではなかった。先の展開が、おれの知っているものと同じだったからだ。というか、おれの考えそのものだった。
「どう?」
「クロだな。真っ黒」おれは言った。「こいつは間違いなくおれのストレージを覗いてる」
「記憶漏洩」
「サバクタニに連絡か。しかし――」事が明らかになったとして、次に対策がとられることになるだろう。恐らく、おれの脳もいじられることになる。アップデートを掛けられるとすると、この娘が無事でいられるかもわからない。
「ん?」こちらの視線に気付いた彼女が小首を傾げた。不意に見せる仕草が母親そっくりだ。そのデータを元にしているのだから、まあ当然なのだが。
一旦、考えるのをやめた。この懸案事項は圧縮し、頭の中の〈後で考える〉フォルダへ放り込んだ。中には他にも圧縮ファイルが並んでいるが、どれも開いたことはなかった。入れること自体に意義があるのだ。
「それにしても」と、娘が狭い部屋を見回しながら言った。「生活感というか、住んでる人の温もりが感じられる部屋だね。ついさっきまでここにいたみたい」
窓の外には洗濯物がぶら下がっていた。〈できる君〉を起動するまでもなく、家主の不在が一時的なものであることが読み取れた。
「ちょっと買い物に出掛けているだけかもしれない。戻ってくる前に出よう」
玄関へ向かおうとしたところで、不意に扉が開いた。蹴破られた、といった方が正しいかもしれない。何かの金具が吹き飛び、床に落ちて音を立てた。
続いていくつかの人影が流れ込んできた。精確な人数は把握しきれなかった。数える間もなく、おれは何人かの侵入者の手によって床に組み伏せられた。抵抗しようとすれば腕が折れることは、直感でわかった。
目の前によく磨かれた革靴が現れた。黒の中に映る自分の顔が見えそうだった。
「ジェット・コースケ、C級漫画家だな?」男の声が降ってきた。「公序良俗法違反で逮捕する。君には黙秘する権利と弁護士を雇う権利と、脳情報の提供を拒否する権利が与えられる。その他一切の権利は失効する。署まで来てもらおうか」
それまでおれの身体を押さえ付けていた力が、今度は引き上げる方に働いた。入ってきた時とは打って変わり、おれは半ば引きずられる形で部屋を出た。
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