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 空の青。芝生の緑。それらのコントラストはくっきりしていて、鮮やかを通り越し眩しいほどだ。

 若草の香りがした。方々から笑い声が聞こえた。周囲には、おれたちのような家族連れが多かった。

「この辺にしよう」おれは荷物を下ろした。トートバッグの中からレジャーシートを出し、芝生に広げた。

 妻が、押してきたベビーカーから娘を抱き上げた。レジャーシートに座らせてやると、娘は据わったばかりの首を巡らせて辺りを見回し始めた。普段は見慣れない広々とした景色に、興味津々といった様子だった。

 おれたちは持ってきた弁当を広げて食べた。ラップで包んだサンドイッチ。少し甘い卵焼き。冷めても柔らかい唐揚げ。ポットから注がれる紅茶。頬を撫でる穏やかな風。都会の喧噪は、広場を囲む木々に押し留められていた。ここでは人か鳥の声しか聞こえない。

 ヒラヒラと、黄色い蝶が飛んできた。娘がキャッキャと手を伸ばした。

「なんだ、欲しいのか」

 おれは全身で蝶の動きを追った。タイミングを掴んだところで、上下から両手で包むように覆った。

「ほら捕まえた」

 娘の真っ黒な眼差しが、おれの手に注がれた。おれは彼女の目の前で手を開いた。中からは蝶が、黄色い羽を羽ばたかせながら飛び立つ――はずだった。

 手の中には何もいなかった。たしかに捕まえたはずなのだが。娘が、掌に注いでいたのと同じ目でこちらを見上げた。

「おかしいな」おれは呻くように言って、辺りを見回した。

 黄色い蝶は、何事もなかったように飛んでいた。レジャーシートの縁から出て行くところだった。

「おかしいな」おれはもう一度言って、頭を掻いた。それから妻を見やった。助けが欲しかったのだ。妻はつばの大きな麦わら帽を被っていた。顔が影になり、口元以外は覗えなかった。

 その、薄い唇が動いた。

「すぐ逃げる」

 蝶が、ではない。おれのことだ。

「あなたはいつだってそう」

 気付くと、おれは汚れた天井を見上げていた。

 首筋が痛んだ。頭の下にあるのは枕ではなく、ソファの固い肘掛けだった。

 薄暗い部屋。カーテンの隙間から、真っ白な光が射し込んでいた。陽はだいぶ高い所にあるようだった。

 入稿時の記憶がなかった。覚えていないということは、意識は相当ぼやけていたようだ。だがまあ、いつものことだ。ちゃんと身体は動いたのだろう。起き上がる気力は、まだ湧かなかった。おれは仰向けになったまま、額に右手の甲を乗せた。

「すごい汗」娘の声がした。「怖い夢でも見たの?」

「いや」おれは答えた。「楽しい夢だった――途中までは」

「途中からは?」

 おれは少し考えてから首を振った。

「覚えてないな」

 むっとした、〈体臭〉以外に形容しようのないにおいが鼻を突いた。床にアシスタント二人が転がっていた。おれは身体の軋みを押し切って起き上がり、カーテンと窓を開けて部屋に外の空気を入れた。

 寝ぼけ眼のアシスタントたちを追い払い、熱いシャワーを浴びた。台所でコップに注いだ水を飲み干し、一息ついた。身体の所々には俄に火照りが残っていたが、一応の区切りは付いた気がした。ソファに腰を下ろし、静かに吹き込む風を浴びながら目を閉じた。通りを行き交う車の音に耳を澄ませた。

 隣に誰かが座る気配があった。それが誰かは考えるまでもなかった。

「あの漫画のこと、気になる?」案の定、娘である。

「気にならないといえば嘘になるな」おれは瞼を上げ、ローテーブルにほっぽり出したままの漫画雑誌に手を伸ばし、件のページを開いた。

 改めて読み直しても、やはりおれのアイデアとそっくりである。物語にはパターンがある以上、大まかなプロットが似てくるのは仕方がない。だがこの漫画の場合には、そういった〈偶然〉が感じられなかった。おれか、もしくはおれの話を聞いていなければ描き得ないような要素がいくつも見受けられたのだ。

 因みに、漫画のアイデアをうっかりどこかで口走った可能性はゼロである。担当編集との打ち合わせは常に〈直脳オンライン〉で行われていたし、悲しいかな、ここ数年は誰かと飲みに行くような交友関係もなかった。

「その編集さんがよそで喋っちゃったのかも」娘が言った。

「共有するファイルにはおれとの打ち合わせ以外では開かないようセキュリティを掛けてるから、それはないと思う。アイデアのデータはおれしか見られないフォルダに入れていた。そもそも彼との打ち合わせに持ち出すはずがないんだ」

「じゃあ、やっぱりサーバがおかしいのかな」

「そんなはずはないよな。世界のサバクタニに限ってそんなこと」

」娘はおれの胸の内を読み上げるように言った。「気になるなら、納得がいくまで調べてみたら? 自分の気持ちから逃げるのはよくないよ」

 おれは隣に座る少女を見た。

 彼女が小首を傾げると、艶のある黒い髪が揺れた。深く澄んだ眼差しが、何の迷いもなくこちらに向けられていた。

「ね?」

 おれは肩をすぼめた。

「そうだな」

 彼女がいて、本当によかったと思った。彼女が存在するだけで、他にもう望むものは何もなかった。

 おれにはこれで充分だ。

 充分なはずなのだ。

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