26−2
アクセス権限を取得し、おれたちは下層現実に接続した。外へ出るとマスキングされていた本来の風景が目の前に広がっていた。相変わらず情報の洪水だったが、〈上〉とは違う穏やかな静けさに包まれていた。ここではいつも通りの時間が流れているようだった。
歩いていると、見えないはずの人々の姿も見えた。その中の一人が手を上げて挨拶してきた。タケさんだった。〈上〉のネットワークに参照できないのか、彼にはエアタグの群れも音声マスキングも掛かっていなかった。
「夢ちゃん、久しぶり。元気かい」
「お陰様で。タケさんこそ変わりない?」
「この通りまだ生きてるよ」タケさんは笑った。やはり上の前歯がなかった。「そっちは色々と大変なんだろ?」
「悪い病気が流行ってるよ。こっちは大丈夫?」
「向こうのネットワークから弾き出された俺たちには関係ないさ。存在しないことになってんだから」
タケさんはカラカラと笑って、自分が曲がる方の道へ折れて行った。その後ろ姿を見送りながら、濃川捜査官が言った。
「結局、最後に残るのはあの人たちなのかもしれませんね」
レトロモダンの建物に入ると、受付にはいつもの無愛想な茶髪の看護師が座っていた。彼女はおれと視線が合うと、少しだけ奥の方へ目を動かしただけで手元のタブレット端末に意識を戻した。おれたちは待合室を抜け、廊下を歩いた。
診察室に科野の姿はなかった。奥から気配がしたのでアコーディオンカーテンを開けると、ヘッドマウントディスプレイを掛けた科野が施術台の上で仰向けになっていた。手が宙を泳ぎ、指はイソギンチャクのように一本ずつ動いていた。口元をニヤけさせ、何か呟いているところからも、昏睡ではないようだった。おれは施術台の傍へ行き、ヘッドマウントディスプレイを指で弾いた。それでも気付いた様子がなかったので、顔から機械を剥ぎ取った。科野の緩んだ笑みが現れた。
「——ハッ」一拍置いてから、彼女は夢から覚めたようだった。「何だいセンセイ。人が楽しんでいる時に。というか、脳に直接繋いでる状態だったらわたしは廃人になっていたところだよ」
「それは悪かったな。次からはドアに鍵ぐらい掛けといてくれ」
科野は施術台から降り、サンダルに足を突っ掛けた。おれと濃川捜査官を交互に見て、口元にフッと笑みを浮かべた。
「待っていたよ、お二人さん。ようやくやるんだね」緩んだ顔を見ている分、キメ顔の効果は薄かった。
「はい。何から何まで頼ってしまい申し訳ないのですが、またお力を貸していただけませんでしょうか」
「綺麗な〈生脳〉を持ってる濃川ちゃんの頼みなら何だってするよ」
科野は濃川捜査官を、というより彼女の頭部を見つめながら言った。しかし、電脳空間にいる敵を相手にする以上、科野の協力は絶対必要である。脳スキャンの一度や二度、いや詳細なモデルが作れるまででも濃川捜査官に耐えてもらわなければならない。もっとも、濃川捜査官とてその覚悟のようで、それを拒むような素振りは見せなかった。
おれたちは診察室へ場所を移した。
「まずはこの世間の状況をどうにかしなければならない」おれは言った。「何か方法はあるか?」
「昏睡症はネットワークを介して拡がっている。謂わばウイルスだ」科野は行った。「ウイルスにはワクチンで対抗できる」
「作れるのか」
「ウイルス本体があればね。今回の場合は発症前のものに限る。このウイルス、役目を終えると自壊するように出来てるんだ。だから痕跡が残らず、対策もとれない」
「どうやって生きてるウイルスを手に入れるんだ?」
「ウイルスを追い掛ける」と、科野は言った。「昏睡の原因である仮想空間——〈新世界〉だっけ?——は、人の人工脳のリソースを使って展開されている。つまり昏睡者が増えれば増えるほど、この〈新世界〉の範囲は拡がっていく。それは今も進行中さ」
「そしてその世界の端の部分には、生きているウイルスがいる」濃川捜査官が言った。
「その通り。さすがは濃川ちゃん。いい脳をしているね」
「理論上はそうだろう」おれは言った。「だが、そんな所までどうやって行くんだ? 〈新世界〉はこの現実の代替だ。あそこが仮想空間だなんて認識を持てなくなるんだから、世界の端なんて考えもできなくなるんじゃないか?」
「だからこそ〈脳なし〉の、センセイの出番なんだよ」科野は自分のこめかみを指先で叩きながら言った。「センセイには起きたまま夢の中に入ってもらう。今まで持て余していた無駄にハイスペックなその人工脳ならそれも可能だよ」
「一応訊くが、どうする気だ?」
すると科野はキャスター付きのホワイトボードを引き寄せ、ペンのキャップを外した。
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