24−2
もちろん、おれ自身にも昏睡の可能性はあった。ましてや〈脳なし〉なのだから、そこらの〈脳たりん〉より何倍も発症する確率は高いはずだった。しかし不思議と恐怖感はなかった。それは、世の中をこんな状況に陥れた元凶を知っているという、妙な余裕もあるが、その元凶に見放されたという感覚を持っているためでもあった。何か根拠があるわけではないが、おれは砂漠谷エリ、もとい彼女の脳から見放されている気がした。真実を知ってしまったことで彼女(あるいは彼)の言う〈新世界〉に入れてもらう権利を失ってしまったような、そんな気がしたのだ。その世界を構成する材料が、おれから取られたにも関わらず、だ。夢が夢であることを知っている者は水を差すかもしれず邪魔だと思われたのかもしれない。
おれは粛々と漫画を描き続けた。どんな世の中になってもエロ漫画のニーズはあるらしく、仕事は定常的に入ってきた。むしろ、掲載を予定していた作家が昏睡するなどしてページに穴が空き、それを埋めるための依頼すら入ってきた。うちには丁度、行き場を失ったアシスタント二人が住み込むようになっていたから朝晩関係なく働いた。端から崩れ去っていくような世の中に在って、少なくともおれたちの仕事は繁盛していた。
食いっぱぐれる不安は当面なくなったものの、ほとんど断続的に鳴り続ける救急車やパトカーのサイレンを聞いていると娘のことが心配になった。まだ実際には会っていない、中学生になっているはずの娘である。
ある日、おれは元妻に電話を掛けた。人格ゲシュタルトが復旧して以来初めてのことだった。最後に掛けた時にはおれの声すら認識されなかったが、今回は問題ないはずだ。警察に追われる身でいたことを隠していたことをなじられるかもしれない。それでも会話が全くできないよりはマシだ。娘の安否ぐらいは確認できるだろう。
ところが、呼び出し音が何度鳴っても電話が取られることはなかった。おれの番号が表示されたせいかとも思い、時間を置いて非通知でかけ直しても駄目だった。癪だったが住まわせてやっている恩をちらつかせてアシスタント二人(住むところがないというので部屋を貸してやっていたのだ)の番号からも掛けさせたが、やはり元妻は電話に出なかった。
「普通に嫌われてるんじゃないすかあ?」ベタを塗っていた荻原が言った。何度かかけ直した後のことだった。「捜査に協力しているとはいえ、先生がMINDを不正受給していたのは確かですし。言ってみれば前科持ちっすよね」
奴をうちから叩き出すのは簡単だったが、反論できない悔しさが行動を抑えた。荻原の言うことは事実だった。濃川捜査官が頭脳警察内部に手を回したらしく、人格ゲシュタルトが復旧してからもおれが逮捕されるような事態にはならなかった。その内に今回の事態となり、おれに関する嫌疑そのものが有耶無耶になっている感がある。頭脳警察としては、操られていただけの小物より、本体である砂漠谷エリその人の捜索に血道を上げる方が先決だと判断したらしい。
「直接、会イニ行ッタライイ」エゼキエルが言った。「私ノ地元デハ、家族ヲ大事ニシナイ者ハ男ト見做サレナイ。案山子ト同ジ扱イ」
「厳しいなお前の地元」
そこへ瓶の倒れる音がした。荻原がインクをこぼしたのだとすぐにわかった。見ると奴は机に突っ伏していた。
「お前、何やって——」
言いかけて、おれは口を噤んだ。エゼキエルが荻原の元へ行き、体を揺すったが反応はなかった。エゼキエルがこちらを見て、首を振った。荻原をベッドへ運び119番に掛けると、流行中の昏睡かと訊かれた。そうだと答えると、病院では受け入れていないので自宅療養するようにと言われた。メディアで見た通りの対応だった。相手のうんざりしたような声を聞いているとそれ以上は何も言えなかった。おれは電話を切った。それから、元妻にもう一度コールした。やはり電話は取られなかった。
荻原のこととベタ塗りはエゼキエルに任せ、おれは元妻と娘の住む阿佐ヶ谷のマンションへ向かった。
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