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初めは個人の疾患として扱われた。彼はアメリカ・コネチカット州に住む五十一歳の絵本作家で、三人の息子の父だった。ある朝、夫が起きてこないことを不思議に思った妻がベッドルームへ起こしに戻ったが、いくら声を掛けても、肩を揺らしても、最終的には激しく頬を張ったにも関わらず、彼は目を覚ますことがなかった。昏睡にしては穏やかに寝息を立てていた。救急車が呼ばれ、病院に運ばれてからも彼は眠り続けた。体は、やや太り気味なことを除けば至って健康。完全電化された人工脳も、問題なく動作していた。
絵本作家が〈原因不明の眠り病〉と診断された数日後、今度は彼の十四歳になる次男が父親と同じように眠りから覚めなくなった。どんな衝撃を与えても起きないことと、穏やかな寝息を立てているところは父親と全く同じだった。違うのは脳の電化率で、この少年は半分が人工脳になっていた。
血の繋がりのある二人が同じ症状を示したことで、医師は遺伝的要因を疑った。だが、そんな予想を一蹴するように、今度は男の妻が目覚めなくなった。次男の〈症状〉が出た翌日のことである。状況は夫や息子と同じ。四分の一だけ電化された彼女の人工脳も、いつも通り稼働していた。
未知の伝染病という言葉が、診察にあたった医師の頭を過った。結局二十一世紀の三分の二を費やしてパンデミックを収束させたというのに、また次のウイルスが現れたというのか。いやそんなはずはないとかぶりを振る彼の元に、絵本作家の残された子供二人も眠った状態で運ばれてきた。母親が搬送された半日後のことだった。医師は頭を抱えた。
打ちひしがれながらも、彼は原因の特定に努めた。その中で、五人の人工脳が示す脳波の値が目を引いた。動きが活発すぎたのだ。それは、夢を観ているだけでは出ないような値だった。とても眠っているとは思えぬほど、むしろ覚醒時よりも活発に、一家の人工脳は活動していた。
一家は眠ったまま、電子身体外科の手に移された。そこでより精密な検査が行われ、彼らの人工脳が通常とは違う形で活動していることが明かされた。そしてその異常な稼働の中心に、NODEシステムへの接続プラグインがあることも。
同様の症例は世界中で報告されていた。どれも原因不明の昏睡症状として処理されていたものだが、どの患者も人工脳が活性化し、また漏れなくNODEシステムの利用者だった。欧米はすぐにNODEシステムをリコール対象とし、
各国政府とサバクタニが押し問答をしている間にも、世界ではNODEシステムの利用者が次々に眠ったまま目覚めなくなっていった。大抵は家族の中で誰かが罹り、家族にも伝染していくというパターンだった。だが、数が増えるごとに、家族以外のコミュニティでも伝染は起こるようになった。職場や学校、老人ホーム。村、街、都市の一角と、範囲は見る間に広くなっていった。その頃にはもう、患者の中にはNODEシステムの非利用者でも脳を電化しているといった人々が含まれるようになっていた。それは人工脳の所有者であれば——つまり総人口の九割にあたる人間が、いつ覚めない眠りに引きずり込まれるかわからないことを意味していた。
世界各地で混乱が起こった。サバクタニへの反発は一般レベルでも激化し、同社は事業撤退を表明、事実上の廃業となった。もっとも、メディアの前に砂漠谷三姉妹が出て来ることはなく、同社の顧問弁護士が、自分も何も知らないという言葉を何度も繰り返しながら、世界中からの批難の矢面に立たされていた。程なくしてこの人物も永遠の眠りに落ちることとなったが、世間を賑わせている奇病とは違う種類の眠りだった。
砂漠谷三姉妹はどこへ行ったのか。彼女たちに責任を取らせるため、世界中が一丸となり捜索を始めた。各国の軍や諜報機関、国際的ハッカー集団までもが総力を上げた。この間、地球上から一切の紛争や政情不安が一旦消え去ったことは、何とも皮肉なことである。砂漠谷エリは図らずも、こちらの現実を覆っていた醜さを消し去ってみせたのだ。
だが、それでも彼女は〈新世界〉への移行の手を止める気はなかったのだろう。昏睡者の増加は留まるところを知らず、市場経済はズタズタになった。物流が滞るようになったせいで生活物資の不足も深刻化した。
生活と生命、両方に対する不安から、人々は恐々として生きるようになった。一部では、眠りに就いたら永遠に幸せな夢を観ていられるという噂が真しやかに囁かれ、自ら薬を飲んだり人工脳を止めるなどして昏睡する者まで現れた。人工脳さえなければ発症しないと考え、破壊もしくは摘出を試みる者もいたが、そちらは惨憺たる結果となった。
坂道を下るような世界の状況を、おれはテレビ越しに見ているしかなかった。できることといえば、その辺で明日は目覚めないかもしれないと恐々としている人を捕まえて「おれはこの事態を引き起こした人物とその狙いを知っている」などと言うことぐらいだったが、そんなことをしても意味はないし、どんな目に遭うかも予想ができなかった。世の中は、ほんの些細な冗談も許せぬほど追い詰められていた。
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