24−3

 住所こそ知ってはいたが、実際に訪ねるのは初めてだった。というより禁じられていた。元妻の許可なくして娘の前に現れてはならない、というのが離婚の際に交わされた約束事の一つである。もし破れば、娘には金輪際会えなくなる。今回はその約束に反しているわけだが、事が事だけに吞気なことは言っていられない。おれは最悪のケースも想定しながら、記憶してある住所へ向かい、エントランスのパネルで彼女たちの部屋の番号をコールした。

 反応は、やはりなかった。共用部の郵便受けに行き、該当の部屋番号のものを確認すると、チラシの類いが乱雑に突っ込まれていた。蓋から飛び出しているものを引き抜くと、二週間前の日付から始まるクリーニング屋のセールの報せがあった。郵便受けの中にはまだ同じようなチラシが見えた。少なくとも数週間は開けられた形跡がなかった。

 今度はエントランスを出て、ベランダ側へ回った。部屋番号から階数はわかったが、どの窓が該当する部屋なのかまでは判別できなかった。左右のどちらから数え始めるかによって二択にまでは絞られた。どちらの窓もカーテンが引かれていた。

 実家にでも帰っているのだろうかとも思った。だがそれなら一度ぐらい電話に出てもいいはずだ。娘の学校のこともある。こんなご時世でも、会社も学校も通常通り行かねばならないはずである——そこでハッとした。そうだ、学校。

 最寄りの中学校を検索すると、歩いて十分ほどの所に一つ見つけた。制服を調べると、男子は学ラン、女子はセーラー服である。早速足を向けると、校門は閉ざされていたものの、建物の中に明かりは点いていた。学校の代表番号に電話を掛けると、疲れたような中年女性が電話口に出た。おれは娘の名を出し、自分の素性と電話を掛けた理由を説明した。中年女性は個人情報に関わることには答えられないと言った。どこかうんざりしたような調子だった。

「学校に来ているかどうかだけでも知りたいんです。元気でいるかどうか」

『ですから、そう言ったことにもお答えするわけにはいきません。そもそもうちの生徒かどうかもわからないわけですし』

「そちらに通っていることは間違いないんです」先日まで頭の中に居た仮想娘が同じ制服を着ていた、とはさすがに言わなかった。「吹奏楽部の一年生です」

 電話の向こうでため息が聞こえた。

『仮にあなたがお父様だったとして、こんな状況ですから心配されるお気持ちはよくわかります』と、中年女性は言った。『ですが、規則は規則なんです。どうかご容赦ください』

 別の声がして、彼女は送話口を塞いだのか、くぐもった返事が聞こえてきた。

『すみません、こちらも職員が何人も倒れていて、時間がないんです』それは思わず零れた本音のようだった。『とにかく、娘さんの件に関してはお答えすることはできません。ではこれで』

 電話は一方的に切られた。掛け直しても結果は変わらないか、もっとひどい言葉をぶつけられそうなのでやめておいた。

 だが、ここまで来ておいて引き下がれるほどこちらも諦めが良い性格ではない。娘の安否が掛かっているのである。少なくとも、登校しているかどうかだけは確認したい。そうした思いが、おれにフェンスをよじ登らせた。監視カメラや人の眼がないことを確認するぐらいには冷静なつもりだった。それでもどこかで視野狭窄に陥っていたのだろう。フェンスを越え敷地内に降り立った時、ふと振り返ると自転車を引いた制服警官が網の向こうに立っていた。お互い相手の姿が信じられないというように、おじさん同士でしばらく見つめ合ってしまった。

 もし娘が校内に居た時のことを考えると、余計な騒ぎは起こしたくなかった。おれは大人しく敷地の外へ戻り、制服警官が呼んだ応援によって最寄りの警察署へ連行された。今年だけで一生分は警察に連行された気がする。

 取調室で制服警官を相手に事情を話した。どこか疲れたような顔の警官は、頷きながら調書をとっていた。彼にも娘が居るとのことだった。

「心配ですよね。でも、お父さんが娘さんに心配掛けるようなことしちゃ駄目だと思いますよ」

「ですよね……」明らかに年下の警官に、おれは頭を下げた。

 取調は一通り済んだものの、おれは部屋の中で待たされた。少なく見積もっても二時間は経った頃、ようやく扉が開いて、スーツ姿の男が現れた。彼は誰かを案内してきたようで、扉を開けたまま、その人物に入室を促した。

「お一人で大丈夫ですか?」

「問題ありません」背の小さな人影は言った。「扉も閉めていただいて構いません」

 案内役はぎこちなく頷いて、言われた通り扉を閉めた。六畳ほどの部屋の中には、濃川捜査官とおれの二人だけになった。彼女は数時間前まで制服警官が座っていた椅子を引き、そこに腰を下ろした。机の向こうから、真っ黒な瞳がジッとこちらを見上げてきた。

「ご無沙汰しています、夢野さん」

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