16−3

 もらい煙草を堪能していると、一人の男が近付いて来た。もしおれの頭がネットワークに繋がっていたらエアタグだらけであっただろうその男は、ほつれだらけのセーターに汚れたチノパンという出で立ちだった。頭は禿げ上がり、照れ笑いを浮かべた際に見える口の中には上の前歯がなかった。

「お取り込み中のところ悪いね。ちょっといいかな」

 科野の患者かと思い、おれは腰を上げようとした。だが、男はおれに用事があるのだと言った。

「あんた、絵、上手いそうだね。漫画家なんだって?」

 おれは科野を見た。おれが漫画家だったことをおれに教えたのは誰あろう彼女だった。過去に関する情報の出所など彼女以外には考えられなかった。案の定、彼女はわざとらしく口笛を吹くような真似をした。

「そうだったらしいけど、よく覚えていないんです」隠しても仕方ないので、おれは言った。「今は廃業中です」

「でも、絵は描けるんだよね?」そう言って、男は脇に抱えていたスケッチブックを差し出してきた。どこかで拾ったものらしく、全体的に歪み、リングの大きさの割に紙が少なかった。「これに描いてくれないかなあ?」

「描くって何を?」

 すると男はそわそわし出した。やたらと科野の方を気にしているようだった。

「ああ、わたしはお構いなく」

 科野が言ったので、男の言わんとすることがわかった。おれはため息を吐き、男に筆記具を求めた。男はチノパンのポケットからサインペンを取り出した。ずっと握っていたのか妙に温かいそれは、掠れはするものの一枚分のイラストを描くには足りそうだった。

「漫画家だった頃の記憶なんて残ってないから、自信ないですよ」

「大丈夫、大丈夫。それっぽく見えればいいから」相手は笑いながら手を振った。

 渡されたサインペンを握った瞬間、頭の中でカチリと音が聞こえた気がした。描ける、というにおいも感じられた。

「何か要望は?」そんな言葉が口を突いて出た。

「あ、じゃあ、足をこう——」

 言われたままの絵をおれは描いた。

 線に迷いはなかった。むしろ、引くべき線が決まっていて、それをなぞっているような感覚だった。

「相手は?」

「いい、いい。女の子だけで」

 おれはペンを走らせ続けた。インクの切れかかったペン先が紙に擦れ、引っ掛かった。だが、その感触が気持ちよかった。キュッキュッ鳴る音も、心地よく感じられた。

「上手いもんだね」肩越しに科野に覗き込まれると、さすがに恥ずかしさを覚えた。

 描き上げてスケッチブックを返すと、男は少年のように顔を輝かせた。何度も礼を言って、握手まで求めてきた。おれは半ば呆けながら去って行く男を見送った。

「体が覚えているのかもしれないね」

 科野の声を聞きながら、さっきまでペンを握っていた右の掌を見下ろした。その手はたしかに、おれの記憶とは関係なしに絵を描いていた。頭ではなく手に記憶が残っているような、そんな感じがした。

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