16−2
公園には既に行列ができていた。辺り一帯に広がる下層現実の住人たちが、週に一度の炊き出しを求めて集まっているのだ。〈上〉では、MINDが底を突いたおれたちはどこの店にも入れず、また入れたとしても店員や機械に認識されないため、食料などを調達することが不可能だ。そんなおれたちのために、NPOが主体となったボランティアが炊き出しと生活物資の配布をおこなってくれる。彼らはNODEにもMINDにも反対の立場をとる〈
「元気そうだね、センセイ」湯気の立つ寸胴鍋の向こうで、科野が笑っていた。「ここでの暮らしにはもう慣れたかい?」
「お陰様でな。快適に暮らしているよ」
「それは何より」再生紙製のエコ椀に豚汁を注ぎながら彼女は言った。
ここで暮らしていくにあたり、おれは科野を頼った。手筈は全て彼女が整えてくれた。〈上〉での生活に支障を来すほどMINDを失い、更に人格ゲシュタルトまで崩れかけていたおれには、彼女の元へ駈け込む以外に道はなかった。ここへ来た時、彼女が誰なのか、はっきりとした記憶は残っていなかった。ただ、おれの意識の底にある本能のようなものがにおいを嗅ぎ分け、彼女は信用してもいいと判断したのでそれに従ったのだ。彼女の件に限らず、記憶のないおれにはこの〈嗅ぎ分け〉が行動を決める上で唯一の判断基準となっていた。
科野の手により自我の崩壊はどうにか食い止められ、おれという人間は保たれた。しかし、これまでの記憶とMINDという〈上〉で暮らすために必要な情報は失われてしまった。必然的に、おれはこの下層現実で暮らすことになった。
科野にはもちろん感謝しているが、百パーセント心の底から、というわけにはいかない。現金で報酬を払えぬおれを助けたのには、それなりの理由があるに違いないのだ。たとえばそれは、おれが脳なしであることに関係しているのかもしれなかった。
湯気の向こうで科野は小首を傾げた。
「何だい、人の顔をじっと見つめて。照れるじゃないか」豚汁の入った椀が差し出された。
「いや」おれは椀を受け取ってトレイに載せた。「お前は良い奴だなって改めて思っただけだよ」
「そうだろう、そうだろう」
後ろがつかえていたので、おれは次のおかずへ進んだ。定食が一通り揃い、空いているベンチを探した。適当な所に腰を下ろして食べていると、仕事を終えた科野がおれの分の生活物資を持ってやって来た。
「悪いな、何から何まで」
「気にしなくていいよ」彼女はおれの隣に腰を下ろし、煙草を取り出した。昔ながらの紙巻きだ。「センセイには今まで興味深いデータを取らせてもらったし、これからも取らせてもらうし」
「やっぱりそれか」おれは豚汁を啜った。「ボランティアなんてしてるのも、サンプル集めの一環か」
「心外だな。半分は純然たる奉仕の心からだよ」
「半分だけかよ」
科野は咥えた煙草にマッチで火を点けた。顎を上げ、宙に向けて白い糸のような煙を吐いた。同じことをもう一度、繰り返した。
「ところで、頭の方はどうだい? 何か困ったことは?」
「特にはない。ちゃんと自分を自分として認識できている」
「それはよかった」
「ただ、夢を見る」
「どんな?」
「別の世界で生きる自分になったような夢だ」
「それは、別人ではなく?」
「おれ自身だ。根拠はないが、そんな感じがする」
「ふむ」科野は煙草を吸い、煙を吐き出した。「それは、楽しい夢かい?」
おれは首を振った。向こうの方ではセーラー服の少女が丸まった野良猫を撫でていた。
「あいつが言うには、うなされていたらしい」
「なるほどね」科野の指の間では、煙草が見る見る灰に変わっていった。その様は火の点いた導火線を思わせた。「そしてセンセイにはその正体に心当たりがある」
「心当たりというか、普通に考えていけばその答えに辿り着く」
科野は最後に一口吸ってから、短くなった吸い殻を携帯灰皿に落とした。
「それはなくした記憶の名残かもしれないね」
待っていた言葉なので、感情の動きはさしてなかった。
「具体的な夢の中身は覚えているかい?」
「いや、そういう夢を見たという実感しか残っていない。誰が出てきたとか、何をしていたかということは覚えていない」
「そうだろうね。あの施術はそういうものだから」
〈あの施術〉とは、おれという個人の核をなす人格ゲシュタルトの修復である。科野が言うには、彼女の元へ来た時、おれの脳内はズタズタだった。どこかに仕込まれたウイルスが記憶全体に広がり、本丸である自己認識も破壊し始めていたのだ。自己認識の確保を優先するため、科野はおれとサーバ内にある記憶との繋がりを断ち切った。橋を落とすことで崩壊の侵攻は止まった。その代償として、おれは〈夢野恋太郎という名の成人男性である〉という最低限の自己認識だけを残し、その他一切の自分に関する記憶を失うこととなった。
「幻肢痛というのを知っているかい?」
「事故とかでなくした腕に痛みを感じるってやつだろ?」
「そう。今のセンセイにも同じことが起きている可能性が考えられる。本当はないはずの記憶を、脳がまだあるように錯覚している、と。器に盛った果物を思い浮かべてほしい。この場合、器が脳、果物が記憶だね」
言われた通り、油絵のモチーフになりそうな景色を想像した。
「器に乗った果物は消せるけど、器そのものは消せない。だから、空の器の存在だけを感じ続ける。何かあったという漠然とした感覚だけは残る。気持ち悪いかもしれないけれど、こればかりはどうしようもないんだ」
「別に構わん。今のおれが何も思い出さずに済むなら、それでいい」おれは食事を終え、割り箸を箸袋に入れた。
科野が潰れかかった煙草のパックを差し出してきた。
「食後の一服はいかが?」
本物の煙草など、もう何年も吸っていなかった気がする。健康上の理由もあるが、喫煙習慣はMINDに大きな影響を及ぼす要因の一つだ。以前のおれは生活から煙草を遠ざけていたようだが、それももう必要ないのだ。何らかの理由で必要なくなったのだ。
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