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 その人物の来訪は科野から告げられた。「センセイに会ってもらいたい人がいるんだ」と、柄にもなく真剣な面持ちで言われたので、応じざるを得なかった。

 面会場所は普段炊き出しが行われる公園となった。相手が女性であることはわかっていたので、寝床にしているオンボロアパートに上げるわけにはいかなかった。密室に男女二人など、人工脳が機能していなくとも非常識だとわかった。

 科野に言われた通りの日時に公園へ行くと、スーツ姿の女性がいた。明らかにここの住人たちとは違う雰囲気を纏っていた。背が低く、若いというよりは幼い印象を受けた。中学生、もしくは小学校高学年と言われれば納得してしまいそうな見た目だった。彼女はおれを見つけると一礼した。ぺこりという音が聞こえてきそうだった。おれもつられて頭を下げた。彼女の目元は眼鏡のレンズで覆われていて、表情を窺うことはできなかった。

 おれは彼女を隅にあるコンクリート製のテーブルセットに案内した。飲み物がないことに気付いたが、ここには自動販売機などなかった。こちらが慌てているのを察したのか、女性は提げていた紙袋を掲げた。チェーンの喫茶店の袋だった。ゴミではなく新品を目にするのは久しぶりだった。

 テイクアウトのコーヒーがお互いの前に置かれた。おれはブラックのまま、女性は早々にプラスチックの蓋を外し、砂糖を入れた。袋一本分を丸々入れていた。

「あの、よかったらこれも」と、おれは使っていない自分の砂糖を差し出した。

「ありがとうございます」彼女は受け取って細長い袋の口を切った。

 無慈悲に甘く味付けされるコーヒーを見ながら、こんなことが前にもあったような感覚が湧いてきた。いわゆるデジャヴというやつかもしれない。だが、その原因が大量の砂糖を注がれるコーヒーなのか、こうして誰かと向かい合っていることなのか、この女性自身であるのかは定かではなかった。プラスチックのマドラーでコーヒーが掻き混ぜられ、彼女が一口飲むのを待ってからおれは言った。

「失礼を承知でお訊きしたいのですが」

「どうぞ」彼女は小さく頷いた。

「前にどこかでお会いしたことがありますか?」それからおれは言い添えた。「すみません、訳あって記憶をなくしているもので」

「その件については、科野医師より伺っています。どうかお気になさらずに」

「はあ」

「会ったことはあります」と、彼女は言った。「質問の答えです。我々は過去に会ったことがあります。初対面ではありません」

「あなたは何者ですか?」

「それは追々。もしくは、永久に知らないままの方が良いかもしれません」

「なるほど」彼女はおれが記憶を失うに至った核心部分にいるのだろうと判断した。或いは、MINDを失ったことにも関係しているのかもしれない。

「素性も明かせない者が一体何をしに来たんだ、とお思いでしょう」

「まあ、正直」

 しまった、と思ったが、彼女は動じていないようだった。

「お顔を見て、こうして話をするために来ました」

「それだけ?」

「それだけです。お元気そうなので安心しました。今日のところはこれで充分です」

「あなたは——」おれにとってどんな女性だったのだろう? そう問いかけようとしたが、言葉は出なかった。もしそう口にして、悲しげな顔でもされたらこちらが耐えられそうになかった。言動から察するに、相手は二十代である。自分の半分ほどの年齢の女性と付き合っていたとは信じがたいが、その可能性は決してゼロではなかった。

「恋人ではありませんよ」叩き付けるように彼女は言った。「少なくともそういう間柄ではありませんのでご安心を」

「あ、そうなんですか?」

 おれたちは向かい合ってコーヒーを飲んだ。こちらが何を問いかけても、彼女は何だかんだと言葉を並べて質問を躱した。彼女は彼女で、本当におれの顔だけ見に来たようで、何も訊ねてはこなかった。そうして奇妙な面会は三十分もしないうちに解散となった。

「ところで、こちらでも漫画をお描きになっているそうですね」別れ際、彼女は思い出したように言った。

「ええ、まあ。科野から聞いたんですか?」

 彼女はその質問には答えずに、

「描かなければどうにも体が疼くとか?」

「そういうわけでは……仲間たちに頼まれたんですよ」

「そうですか」彼女は眼鏡の位置を直した。「ですが、あまり目立った行動はしない方がご自身のためですよ」

「と、いうと?」

「また来ます」やはり彼女はこちらの問いには答えず、踵を返した。「その時まで、どうかお元気で」

 おれは角を曲がって消えていく彼女を見送った。おれの前には、二人分のコーヒーの容器と妙な爪痕が残された。前者はすぐに捨てることができたが、後者は寝て起きても残り続けた。というか、時が経てば経つほど深く濃いものになっていった。

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