17−4

 別れ際の科野とのやり取りは、おれの中に久しぶりの感情を呼び起こした。それが精確には何なのか、言語化することはできない。強いて言えば、何か靄のように曖昧なものが立ちこめている気分だった。

「センセイ、どうだった?」廊下で待っていた少女がベンチから腰を上げた。

「特に異常はない」おれは足を止めずに待合室へ向かった。

「何かあったの?」

「何もない」

「怒ってる?」

「怒ってない」

 少女は何も言わなくなった。

 待合室に行くとタケさんの姿があった。彼も定期検診という名の科野による実験を受ける日であるようだった。

「丁度よかったよ。この後、先生のところへ行こうと思ってたんだ」いつも通りの挨拶を交わした後、タケさんはそう言った。

「もう新作の依頼かい? このあいだ渡したばかりだろう?」

「違う違う。あれはまだ楽しませてもらってるよ」タケさんは前歯のない満面の笑みを浮かべた。「あれじゃなくて、前に描いてもらったのがあるだろ。ほら、くノ一の」

 何週間か前、タケさんのリクエストで忍者モノを描いたことがあった。舞台立てから何から、彼の望んだ通りに仕上げた作品だった。

「あれ、あんまり良かったからさ、他の奴にも見せたんだよ。そしたらみんなも気に入ってさあ」

 住人たちの間でおれの作品が回し読みされていることは知っていた。別に禁じていたわけでもないし、依頼が減るわけでもないから気にはしていなかった。むしろ回し読みした上で各々が新作を欲して頼みに来るのだから、こちらとしては文句を付ける筋合いもなかった。

「中でもコムがえらく気に入ってなあ。ほら、あの前歯のないあいつ」

「タケさんもないけど」

「俺は上の歯だろ。あいつは下の歯だよ」

「それでコムさんがどうしたの?」

「そう、そのコムがさあ、言うんだよ。『この作品は絶対〈向こう〉でも売れる』って。それぐらい立派な出来だって。鼻息フガフガいわせて言うんだよ」

「そう言ってもらえるのは嬉しいけど、実際のところはどうかな」

「俺もそう思ったんだよ。だから冷静になれって言ってやったんだ」

 タケさんの言葉に胸の中でさざ波が立ったが、それは面に出さずにおいた。

「けどコムのやつ、熱くなっちゃってさあ。あいつ、昔から夢中になると周りが見えなくなるんだよな。それで貯金もMINDもスッカラカンになったんだけど、まあいいや。あいつ、勢いに任せてやりやがったんだ」

「何を?」おれはコムさんがどこかのビルの屋上から、おれの描いた漫画をばら撒く姿を想像しながら訊ねた。

「上げたんだよ、先生の漫画を」

「どこに?」

「ネットにだよ。〈上〉の連中が使ってる、正真正銘本物のネットワークにさ」

 まず始めに驚きがあった。世界中に張り巡らされたネットから隔絶されたローカルなこの場所から、まさかもう一度ネットワークに繋がる日が来るとは(しかもこれほど早く)想像もしていなかった。失礼ながら、この下層現実の住人に〈上〉のネットワークと繋がる術を持つ者が居たことにも驚いてしまった。

 次にやって来たのは冷静さだった。いやネットに上げたから何だと言うんだ。上げるだけなら誰にだってできる。どうせ誰からも見向きされず、ゴミデータとなって埋もれていくだけだ。そんな考えが、浮き足立ちかけた自分に冷や水を浴びせた。そうだ、どうせ誰にも読まれやしない。何ちょっと喜んでるんだおれは。もしかするとなんて期待を抱いてやがるんだ。

 だが、他人がおれの意思とは無関係のところで、おれの作ったものを評価し、それを人目に付くところに飾ってくれたという事実は、純粋に嬉しいものだった。

「へ、へー」おれは冷静を装いながら言った。「けど、ネットの世界は広いからね。必ずしも誰かの目に留まるとは限らないからね」

「そうだよな。俺もそう思うんだ」

 またおれの心にいらぬ波風を立てたタケさんは、奥から呼ばれてそのまま言ってしまった。おれは、思いがけず目の前に天から垂らされた糸を掴んだ気持ちでその場に立っていた。受付の看護師から何度も呼ばれたのに気付かぬほど、心はここになかった。

 天から垂らされた糸は、程なくして引き上げられた。一人の女性が、おれを訪ねてきたのである。

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