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 遠くの空が橙色に染まり始めた頃、頭の中に科野の声が響いた。

『時間が掛かってすまない。完成したよ』

 彼女を恨む気持ちはなかった。もしこれが他の人間であれば、一晩では済まなかったはずだ。

『おや。センセイ、何か一皮剥けたようだね』

「わかるか?」おれは言った。

『意識の波が落ち着いてる。不惑の境地にでも至ったのかな?』

「まあそんなところだ」

『濃川ちゃん』と、科野は呼び掛けた。『データを転送した。そっちで受け取れる?』

 濃川捜査官は両手を宙に伸ばした。両の掌の中心に光が現れ、注射器の形を帯びた。濃川捜査官はそれを摘まみ取った。

『それをウイルスの根源に打ち込めば、同期情報に乗って感染者全体に拡散される』

「次は砂漠谷エリか」

 結局、おれたちは団地の屋上で時間を潰すことにした。セキュリティプログラムはおれの記憶にある情報を元に作られるらしく、それもこの現実の登場人物しかリソースとして使えないようなので、そうした人物が来られないような場所を選んだのだ。おれの自宅も候補として考えたが、そこには娘がいる。万が一襲いかかってこられた時、元妻にしたことをできる自信がおれにはなかった。

 屋上のように広さもあり視界の利く場所であれば、万一見つかったとしても対処の仕様もある。周囲に高い建物がないことも利点だった。尤も、他の人間が上がってこられないということはおれたち自身も上がりづらいということでもあった。建物には屋上へ通じる階段がなく、最上階の天井にマンホール式の蓋と梯子があるだけだった。その梯子も、子供が上がらないようにするためか、脚立か何かを使わなければ容易に掴めぬ高さに付けられていた。手負いの身にこのアスレチックはきつかった。おれよりも傷の深い濃川捜査官には尚のことだったと思うが、彼女は「どうせ落ちても死にませんし、戻る必要もありませんから」と言ってさっさと昇っていった。おれも続かないわけにはいかなかった。

 読み通り、セキュリティプログラムと化した誰かが屋上へ姿を現すことはなかった。おれたちはワクチンが完成するまでの五時間あまりを休息に充てることができた。休息といっても、傷が塞がるわけではなかった。欠損した部位は元には戻らず、そこがなくなったという事実に感覚を合わせるしかなかった。立ち上がった濃川捜査官は、屋上へ上がってきた頃よりは回復しているように見えるが、やはり動作の端々は精彩を欠いていた。

「探しに行く必要はありません」と、彼女は言った。「居所はわかっていますから、そこへ行くだけです」

「頭脳警察でも見つけられなかったんですよね?」

「無策で乗り込んでいっても、犠牲が増えるだけなので黙っていました」言いながら、濃川捜査官は右の薬指に嵌めていた指輪に左手で触れた。「けれど、夢野さんがいらっしゃれば、行く価値はあります」

 指輪が光り出した。彼女はそれを、まだ夜の残る屋上の一角へ向けた。そこには四角いコンクリートだらけの団地には場違いな、洋館にあるような焦げ茶色の木の扉が現れた。

 おれは彼女の指輪を見つめていた。

「これは姉からの贈り物です」濃川捜査官は指輪をいじりながら言った。「送り主は姉か、脳なのかはわかりませんが」

「罠であるとしても行くしかない」

「ええ」

 おれは扉に付いた丸いノブを掴んだ。

『よろしく頼むよ、夢野先生』

 科野の声を背中に受けながら、扉を開けた。

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