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 彼女がやってきたのは取調べを受けてから三日後のことだった。

 初めは女子高生のファンでも訪ねてきたのかと思った。しかしよく考えてみれば、売れないエロ漫画家のところへそんなファンが来るはずもなかった。それこそエロ漫画の題材にでもなりそうな現実離れしたシチュエーションではあった。だが、インターホンのモニタに映る人物が着ているのは学校の制服ではなくスーツだった。彼女は上着のポケットから手帳のようなものを抜き出し、開いてこちらに向けてきた。学生手帳ではなかった。二つ折りの手帳の下半分には警察の記章があった。上半分には、警察の制服に身を包んだ彼女の写真(コスプレにしか見えない)と〈濃川ゆり花〉という文字があった。

「お話ししたいことがあります。中へ入れていただけませんか」手帳をずらし、濃川ゆり花氏が言った。

 おれはジェット・コースケが捕まり、嘘がばれたのだと直感した。そして、ここは一旦時間を置くのが得策だと判断した。

「お話しなら、知っていることは全て先日しましたけど」

「いえ、うかがいたいというのではなく、こちらからのです。玄関を開けていただけませんか?」

「ちょっと今、仕事が立て込んでまして」

「そう長くは掛かりません。こうして押し問答している時間も無駄ではありませんか?」

「あれ?」別の声がスピーカー越しに聞こえてきた。「その部屋に何か用すかあ?」

 荻原の出勤時間と重なったのだ。最悪のタイミングで最悪な奴が現れた。

「この部屋にお住まいの夢野恋太郎さんにお話しがありまして」

「あー、そうなんすね。どうぞどうぞ。狭苦しいところで恐縮ですが」

「おい、荻原」

 こちらの声が届く前に玄関が開いた。談笑する声(といっても荻原しか喋っていない)がリビングへやって来た。

「もー、センセイ。ダメじゃないすか、お客さん待たせちゃ」

 そう言う荻原を、おれは全力で睨んだ。この思念で腹を下せばいいと思った。

 奴に続いて、背の低い人影が入ってきた。実物からは、モニタ越しに見るより更に幼い印象を受けた。短く切り揃えた黒髪が幼さを助長し、大人びろうとして掛けているようなフレームの太い眼鏡も結果的に裏目に出ていた。彼女はおれに向かって頭を下げた。ぺこりと音が聞こえた気がした。

「改めましてどうも、夢野恋太郎さん。お時間いただき、ありがとうございます」

 おれは頭を掻くしかなかった。

 仕方なく彼女を応接スペースに案内し、座らせた。荻野にお茶を出すよう頼んだが、「業務契約外です」と断られたので仕方なく自分で淹れて彼女と自分の前に置いた。彼女は礼を述べ、お茶を一口啜った。眼鏡のレンズが真っ白に曇った。

「それで、お話しというのは」おれは恐る恐る訊ねた。

「はい」真っ白なレンズのまま、彼女はこちらを向いた。「我々は今、ある事件を追っています。その事件について、夢野さんのお力を借りたいのです」

「捜査協力の要請、ですか」

「残念ながら、わたしが夢野さんにするのは、そう穏当なものではありません」

 そう言って彼女は、またも上着の内ポケットに手を入れ、何かを抜き出した。今度は細長く折り畳んだ、白い紙だった。彼女はそれを広げ、警察手帳と同じ手つきで掲げてきた。

「夢野さんには、わたしの捜査に参加する義務が発生しました。これは〈お願い〉ではなく〈命令〉です」

 彼女の言葉も大概だが、それよりおれは、紙に印字されたある単語に意識の全てを奪われた。

 警察庁特務部社会風紀維持課。

 通称〈頭脳警察〉。その四文字と関わり合いにならないため、今までどれだけの注意と努力を払ってきたかわからない。苦労して築き上げた城が、目の前で崩れていくのを見ている気分だった。おれはしばらく動けなかった。やがて、あるはずのない脳が痺れる感覚に襲われた。職業創作者にとって、頭脳警察に睨まれない作品を作ることはヒットを飛ばすよりも重要なことである。

 この公序良俗の権化は、創作者たちの想像力の賜物を隙あらば摘発しようと手ぐすねを引いて待っている。彼らの言い分である〈青少年に対するメディアの悪影響を未然に阻止する。そうすることで、引いては健全な社会運営の一助となる〉に異論はないが、その程度ややり方には承服しかねた。大昔の言論統制と同じことが〈倫理〉の名の下で緩やかに行われているのだ。

 もちろん、反対の意思など尾首にも出すわけにはいかない。相手が法という〈正義〉を主張するのだから、逆らう者は皆、法を犯す〈悪〉となる。もっとも、この法律は警察の、引いてはこの国による、サバクタニサーバシステムサービスに対する対抗手段という色も強い。

 脳を人間の頭からサーバ上に移すということは、その中身を外部からも見やすくなるということである。記憶や考えを覗き見できれば犯罪捜査も楽になり、ともすると未来に起こり得る事件も未然に防ぐことができる。そう考えた警察は、NODEシステムの運用が始まった当初、SSSSに情報開示に応じるよう求めた。だが、SSSSはこれを拒否した。サーバの情報、つまり個人の思考が詰まった脳内は絶対不可侵の領域であり、たとえ国家機関であっても本人の了承なしには見せることができない、というのがSSSSの言い分であった。両者の主張は真っ向から対立した。

 この件は当時、大々的に世間でも話題となった。NODEシステムの登場をきっかけに人工脳技術が一般にも浸透しつつあった頃だから、世論は当然SSSSの側に傾いた。また、SSSSのやり方も周到で、世界中に展開していた同社は、まず諸外国で政府との間に絶対的な守秘権を確立させた。外国、特に欧米がやっていると、自分たちだけやっていないことに不安を覚えがちなこの国の弱いところを上手く突いたのだ。中と外からの同時の圧力により、政府はなし崩し的にSSSSと不可侵協定を結ぶこととなった。これにより、NODEシステムの利用者は爆発的に増えた。

 公序良俗法は、誰の眼に見てもこの件に対する腹いせだった。タンクの中身を調べられないのなら、蛇口を閉め、出てくる水の量を絞ってやろうという魂胆が見え見えだった。

 これが具合の悪いことに、創作を生業としている者に問題が限定されていた。世間一般の消費者にとっては特に生活に支障が出るわけでもない。〈表現の自由〉が規制されたからといって、野菜が高くなったりトイレットペーパーが売り切れるわけでもないから「まあ、子供に悪影響のあるものを書く方が悪いんじゃない?」という風潮が広がる。だから、公序良俗法の方は割とすんなり制定された。国としては、SSSSと痛み分けをした感覚なのだろう。

 そんな公序良俗法を執行するのが、警察内部に創設された社会風紀維持課、つまり〈頭脳警察〉である。彼らは公序良俗コードなるものを定め、各種創作物が社会に悪影響を及ぼさぬよう、監視の眼を光らせ始めた。政府内に設置された〈有識者審査会〉も厄介な存在だった。大昔のように国家権力が一方的に表現を禁じるのではなく、国民の代表者である有識者たちが作品の良し悪しを判断する。しかもこの組織は、公には頭脳警察とは独立した機関ということで、傍目からは検閲に見えないよう細工がされた。この制度の設置にも創作者の側以外からは反論は出なかった。

 世に出ている創作物はこの有識者審査会をパスしたものだから安全、ということではない。この〈検閲〉はあくまで、摘発対象にツバを付けるための通過点でしかない。目星を付けた獲物を一度野に放っておいて捕まえる。有識者審査会をパスしたと主張しても、警察と別個の判断基準を満たしたに過ぎないと一蹴され、敢えなく逮捕となる。どんな理由にせよ、とにかく頭脳警察は、NODE利用者を逮捕し、システムそのものの有害性を証明したいのだ。

 ――と、ネットに出回っている情報を纏めるとこんな案配になる。個人のイデオロギーによる多少の偏りはあるだろうが、概ね事実ではないかとおれは思っている。少なくとも、頭脳警察がおれのような職業にとって目の上の瘤であるのは確かである。それは同業者や編集者たちの怯えぶりからも明らかだった。

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